カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

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キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2014年10月

10月5日に、ウナ・ボーチェジャパンの特別形式ミサ(トリエント・ミサ)があった京都の北白川教会(カトリック聖ヴィアトール北白川教会)について書こうと思う。

主任神父様のお人柄を含めいろんな点で魅力的な教会なのだが、建物としての教会(聖堂)という点でも大変感心したので、今回はその話題にしたい。

新しい教会なので、建築意匠としては現代的なコンクリートづくり。

デザインの好き嫌いは意見が分かれると思うが、新しい建物としてのクリーンさがあるし、きれいな庭を横に見る道路からのアプローチがとてもいい。

スロープがあったり、徹底的に段差を排した設計も、教会は高齢者が多いのでバリアフリーの視点で大変好ましい。


特に私が一番感心したのが、レイアウト(間取り)。

航空写真と記憶を元に図にしてみたが、こんな感じ。

北白川教会航空写真


比較的にエントランスが広い。

教会というところは、ミサの前後に一斉に人が出入りするので、エントランスの広さは重要な感じがする。

緊急時を考えた避難という面で、一度に多くの人が外に出られるということもあるが、教会というところは、聖堂の中が基本的に祈りの場であるために、ミサの後に入口付近で立ち話をすることが大変多い。
この教会は、この「立ち話をするためのスペース」をエントランスの広さとホールとの隣接によってあらかじめ確保しているのである。

このホールの位置がまた絶妙。

聖堂とも隣接していて、扉を大きく解放できるようになっている。
おそらくクリスマスなどの祭日で会衆が増える場面を想定しているのである。

またホールには様々なイベントを想定した、低めのステージもある。
聖堂を使わなくてもチャリティコンサートなどが可能ということだ。

初めて教会に来た人にとっても、事務所がエントランスに隣接しているので、声をかけやすい位置関係になっているということが大変良い。

トイレの場所も迷わないし、建物の中にありながら聖堂との距離を保った位置。

良いことづくめではないか・・・

とにかくエントランスがこの教会の最大のポイントなのであろう。

というか、教会というところはエントランスが極めて重要であるということを認識させられる建築である。

設計者のレベルの高さもあると思うが、この設計は、設計者が教会というところを詳しく理解できていないと出来ない設計のようにも思う。
設計を依頼したときの依頼の質の高さがわかる。

教会の建て直しを検討されている教会役員の方がおられたら、是非、見学をされることをお薦めしたい。


エントランス「入り口」というところは、「開かれた教会」の視点でも象徴的だ。

入口から入ったときに声をかける場所がすぐわかり、直感的に各部屋がどういうところかがわかり易い教会と、誰に声をかけたらいいか、どういう意味を持つ部屋かわからない教会・・・

小教区も様々だが後者のような教会はけっこう多い。

建物の建て直しは、なかなかできるものではないのだが、北白川教会の建築のコンセプトに学ぶことは大変多い。

外に開かれた教会という意味において
これは何も建物だけの話ではないような気もする・・・


ちなみに晴佐久神父の多摩教会は、エントランスにカウンターがあり、ミサのときには受付係の方がいる。魅力的な教会であることが、こういうところでもわかる。

また晴佐久神父「福音の村」ブログの引用になる。

一番新しい説教は、晴佐久神父がホテルのラウンジで偶然に聞こえてきた「 まあ、宗教なんていい加減なもんですよ(笑)」と神様を揶揄する初老男性の話から始まる。
御嶽山の山頂の神社でお参りしたにもかかわらず被災した方をさしてのことらしい。

晴佐久神父は、こういう何げない話をもとに説教を組み立てるのが大変うまい。

(くわしくは、こちらを → http://www.fukuinnomura.com/ )

上述のような、「『宗教』あるいは『神様』を揶揄する声、嘲弄する声」というのは、世俗社会に生きる私たちも頻繁に耳にするような気がする。 

しかし・・・
初詣には何百万人もが神社を訪れる。

また、お葬式はどうであろうか?
宗教祭儀の姿をとらないお葬式というのが果たしてどれだけあるのか?

つまり、時に偉そうに宗教を揶揄嘲弄しておきながら、結局は、最期に、社会儀礼としての宗教祭儀で神様か仏様のお世話になるのである。

ずいぶんと虫のいい話ではないか。

「宗教なんていい加減」と誹るならば葬式などしなければいい。



一方、お参り、初詣に因んで、小説家の阿刀田高さんのエッセイでこんな話がある。

明治神宮をお参りする何千何万という人を見て、
「こんなに多くの人がお参りしているのに、果たして神様は私の願いを聞き分けてくださるだろうか?
大きな神社の神様も小さな神社の神様も、それぞれに願いをかなえてくれる力があるならば、お参りする人が少ない小さな神社の神様のほうが覚えてくれる可能性が確立が高い。そこで、初詣は小さな祠にお参りし、少し奮発したお賽銭を入れてみることにした。」

という話だ。 

私はこの話が好きで、初詣の話になると、このエッセイを思い出す。

「カトリック教会は日本では少数派だから、神様に覚えてもらいやすいだろう」という意味ではない。(笑)

儀礼だけではなく、自分の意思で神様に対し意識を向ける情景が目に浮かぶからだ。
神様との「出会いを求める旅の始まり」という感じがする。


未熟な私の信仰(らしきもの)は、かなり「意識すること」に偏ったものであると、自分でも思っている。

しかし、やはり神様は、最低でも「神を意識する者」の前にしか現れてくれないような感じがする。

「信じるものは救われる」と言うが「信じなければ救われない」のである。

時に神様を揶揄嘲弄し、いざ最期の時に、神の不在、 虚無の闇に怖れおののく自分の姿が想像できないというのは悲しい。



聖書の言葉は力強い。

「我は復活なり生命なり。我を信じる人は死すとも活くべし。又活きて我を信じる人は、永遠に死する事なし。汝之を信ずるか」(ヨハネ11)

私はこの言葉に救いを感じる。

「汝 心を尽くし霊を尽くし意を尽くして、汝の神にてまします主を愛すべし」(マテオ22)

「汝の心を尽くし魂を尽くし意を尽くし、尽くして、能力を尽くして、主なる汝の神を愛すべし」(マルコ12)

「汝の心を尽くし魂を尽くし力を尽くし精神を尽くし汝の神たる主を愛し」(ルカ10)

僅かでも神を信じる気持ちが起きるならば、神を賛美する事に対し、躊躇していてはたして良いのか?

心を尽くして神を賛美するため、ミサに与り、救いが生まれる。

トリエント・ミサは、神を賛美するための姿勢というものが大変わかりやすい。
回を重ねるごとに、私はそのことを教えていただいたような気がする。


偉そうな事を書いてしまったが、嘗て、全くミサに与らなかった時期がある私だからこそ、自省の意味も込め、日記として書きとめておきたい。

特別形式ミサ(トリエント・ミサ)では、聖体拝領前に、次のような祈りを唱える。

DOMINE,non sum dignus,ut intres sub tectum meum
:sed tantum dic verbo,et sanabitur anima mea.

日本語訳
「主よ、私は主をわが家にむかえ奉るだに足らぬものである。
ただ一言を語り給え。そうすれば私の霊魂はいやされるであろう。」


これを三回繰り返す。

新約聖書 ルカ7章 マテオ8章にあるカファルナウムの百人隊長の言葉である。


これに対し現在の通常形式ミサの日本固有版での聖体拝領前の祈りは、
「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいて誰のところにいきましょう」
となっている。
こちらは 新約聖書 ヨハネ6章からの引用のようだ。

日本固有版と ラテン語規範版では、少し ニュアンスが違う。

日本固有版は「誓いの言葉」になっているのに対し、ラテン語規範版のほうは、もしかしたら「懇願」
あるいは
「哀願」とも言えるのではないだろうか?

主の憐れみに全面的に
依存して「癒しを願う祈り」になっている


この
ただ一言を語り給え。」 という哀願の「一言」とはいったい何を指すのだろうか?

「安心して行きなさい」
(ルカ7章)を連想したりもするが、聖体拝領という秘跡を前にしての祈りなので、この「一言」というのは、キリストの具体的な言葉ではなく秘跡、聖体拝領を意味するのかもしれない。

私の場合、自分の人生のなかで起きた様々な出来事、特に「偶然」とも思える出来事を思いおこしつつ、感傷に浸る言葉になっている感じがする。

ただ一言を語り給え。」 というのは、プリミティブで 自然な祈りなのだろう。



ドミネ ノン スム ディニュス ウト イントレス スブ テク
トゥム メウム セド タン トゥム ディク ヴェルボー エット  サナビトゥル アニマ メア

ドミネ ノン スム ディニュス ウト イントレス スブ テク
トゥム メウム セド タン トゥム ディク ヴェルボー エット  サナビトゥル アニマ  メア

ドミネ ノン スム ディニュス ウト イントレス スブ テク トゥム メウム セド タン トゥム ディク ヴェルボー エット  サナビトゥル アニマ  メア


私の場合、ラテン語の発音というのがよくわからないので、カタカナ読みになるが、 特別形式ミサのなかでは 三回も繰り返される為なのか非常に印象に残る祈りとなっている

この繰り返しはとてもいい。

なぜ良いのか自分でも説明できないので、私にとって理屈ではなく
、これは「質感」・・・
クオリアを意識する体験・・・

聖書のあの箇所

「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」
「私の服に触れたのはだれか?」
(マルコ福音書第5章)

を思い出してしまう。

「心のともしび」運動。

アメリカ人のハヤット神父が60年前に始められたカトリックの宣教運動だが、日テレ系列の全国ネットでテレビ放映もしていたので、カトリックでない方でもこ存じの方がおられると思う。

もし「暗いと不平を言うよりも、すすんで灯りをつけましょう」というメッセージをテレビで聞かれたことがあるとするならば、その番組が「心のともしび」。

「心のともしび」はテレビだけではない。

カトリックの小教区の教会では、この「心のともしび」のリーフレットを配布してくれる場合がある。

記事の中身はあまり難しい話ではなく、身近な生活の話を題材にして信仰について語られるエッセイで構成されている。

エディトリアル的には、デザインが少し古臭くなってきているのだが、
このエッセイはなかなかいい。

執筆者は聖職者だけではなく、社会で活躍される有名人も多い。

ベストセラーになった「置かれた場所で咲きなさい」
のシスターの渡辺和子さんも執筆者。
曾野綾子さんも昔、寄稿されていた記憶がある。

自民党国会議員の
山谷えり子さんも、レギュラー
執筆者の一人である。

山谷さんの場合は、お婆さまやお父上の話など、ほとんど家族の話といっていい。

しっかりと愛情をそそがれ、その愛情を
受け継ぎ、新しい家族にそそいできた事がよくわかる。

先般の内閣改造で拉致問題担当相に就かれたが、
以前より山谷さんは拉致問題に熱心に取組まれてきたことでよく知られている。

夫を交通事故で突然、亡くされている。

御自身の体験から、家族を引き離された人の苦しみというものに対し、より敏感なのかもしれない。

山谷さんのご活躍を願い、拉致問題の解決を祈りたいと思う。

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最後におしらせ。

くりかえしになるが、明日10月5日。

ラテン語による特別形式ミサ(トリエント・ミサ)が関西で行われる。

関西では1年に1回しかない貴重な機会。
このタイミングを逸しては、1年先になるので、御ミサに与りたい方はご留意願いたい。

ウナ・ボーチェ・ジャパンの公式ホームページから、以下、要点を抜粋し、もう一度転記させていただく

■主催 ウナ・ボーチェ・ジャパン 

■日時 10月5日 14:00〜 (13:50〜 聖母の連祷)

■司式 ラファエル植田勝行神父

■場所 カトリック聖ヴィアトール北白川教会

(カトリック聖ヴィアトール北白川教会への問い合わせはご遠慮ください。)

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