カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2014年09月

前回のブログ記事で、特別形式ミサ(トリエント・ミサ)が、関西で行われることについて述べた。

もうウナ・ボーチェ・ジャパンの公式ホームページに告知、公開されており、来週に迫ってきているので再度お知らせしたい。

やはり関西では1年に1回しかない貴重な機会。
このタイミングを逸しては、1年先になるので、御ミサに与りたい方はご留意願いたい。


ウナ・ボーチェ・ジャパンの公式ホームページから、以下、要点を抜粋し転記させていただく

■主催 ウナ・ボーチェ・ジャパン 

■日時 10月5日 14:00〜

■司式 ラファエル植田勝行神父

■場所 カトリック聖ヴィアトール北白川教会

(カトリック聖ヴィアトール北白川教会への問い合わせはご遠慮ください。)

北白川教会の場所は京都大学グランドのすぐ北側。

地図等の、詳しい情報は、公式ホームページにGoogleマップのリンクがあるのでをご参照いただけたらと思う。

公式ホームページでは未記載だが、四ッ谷の若葉修道院でのウナ・ボーチェ主催ミサでは「聖母の連祷(ラテン語)」が、ミサ直前に行われているので、今回もあるかもしれない。
ギリギリではなく少し早めに余裕をもってお出かけされることをお薦めしたい

年に一度であっても、関西で、こういうラテン語の特別形式ミサに与れるというのは夢のようだ。

植田神父様、すべてのご関係者、会場ご提供の北白川教会に本当に感謝したい。



わたしには、幼児洗礼を受けながらも全く御ミサに与らなくなってしまっていた時期があり、しかも長かったということは、このブログで何回も述べた。

そういうなかで、私にとって「谷川の水」となったのがラテン語のミサであり、私は通常のミサとは違う引力を感じている。

今回の関西での特別形式ミサが、以前の私のような教会を離れてしまっている人の目にもとまり、復帰されるためのトリガーの一つになることを願いたい。


そういう方のために、最後に聖句(詩篇42)を書いておきたい。

「私の魂よ、なぜ打ちしおれるのか。なぜ嘆くのか。神に希望をおけ、私はふたたび神をたたえるだろう。私の顔の救い、私の神を」(詩篇42)


ただし、この詩篇42の情景を思い浮かべると、もう典礼聖歌の「谷川の水をもとめて」のメロディーが頭の中で流れてくるのが皮肉といえば皮肉だ・・・

グレゴリアンではなくても、典礼聖歌の「谷川の水をもとめて」も、とてもいい曲である。

良くないものは消え、良いものは残っていくのだろう。

聖体拝領の姿勢について、前から気になっている。

カトリック信仰における聖体の意味や重要性については省略し、一気に姿勢の話になるので、カトリック信徒ではない方にはわかりにくいかもしれない。

少しカトリック教会内の内向きの話。

ミサにおける「聖体拝領の姿勢」というディティールの話である。


通常、聖体拝領をする時の姿勢というのは「図A」ぐらいではなかろうか?

御聖体を置いてもらう手のひらが胸の前ぐらいにある感じ。

(拝領している姿を横から見た図)
聖体拝領の姿勢A

ところが、これが「図B」のように、肘が伸びたままで、手のひらがへその前あたりまで下がっているような姿勢を見ることもけっこう多い。

聖体拝領の姿勢B

この姿勢・・・

ちょっとどうなのか?  

やはり望ましい姿勢とは言えないのではないか?

無自覚なだけで悪気があるわけではないし、こういう細かい話をする人はあまりいないと思うので、怪訝に思う人もいるかもしれない。

しかし「大切なものを頂戴する」「敬意を示す」姿勢ではないと思う。

街頭で配っているチラシ付きのティッシュじゃあるまいし・・・

チマチマしたことを指摘するのは大人げないのだが、そこはブログなので「つぶやき」「ぼやき」ということで許してほしい(笑)


本来、「おし戴く姿勢」というのであれば、「図C」のような感じではないのか?

手のひらは、肩よりも上にあるぐらいの高さ。
聖体拝領の姿勢C

以前、京都カテドラルでミサに与った際、聖体拝領のときにアジア系の外国人観光客が御聖体を持帰りそうになった現場を目撃した。

「御聖体の意味を知らずに」ということだろうから、これもまた悪気はないと思うし、近くにいた信徒の方がすぐ回収して問題はなかったが、やはり御聖体をいただく信徒の姿勢に緊張感がないと、このようなトラブルを招きやすいのではなかろうか?

臨時の聖体奉仕者が常態化し、信徒も御聖体を配る側になっているのが現実。

「信徒か?信徒ではないか?」という見分け方はどうしているのか?

現実には迷ったり気になることも多いのではないか?

手のひらでの拝領形式というのは、口での拝領形式に比べ、緊張感が緩みやすい。

やはり「曖昧でわかりにくい所作姿勢」を改め、「御聖体を拝領する意思を明確に示した姿勢」にしたほうが良い。
ここは自問自答が必要な事だろう。



少し話が変わるが・・・

11月8日土曜日に、東京目白カテドラルで「ラテン語グレゴリオ聖歌による荘厳司教ミサ」が行われる。
ご興味ご関心のある方は、11月8日土曜日をご留意いただけたらと思う。

聖体拝領も「口での拝領形式」がしやすいように、拝領時に「跪き台」が用意される。
「口での拝領」を未経験の方は、できればぜひ試みてほしい。

http://www.tim.hi-ho.ne.jp/catholic-act-d/Web/24thmassinfo.html


もう一つ大切な情報だが

10月5日に、京都で、ラテン語による「特別形式ミサ(トリエント・ミサ)」が行われる。
関西では、年に一度しかない貴重な機会になる。
詳しくは、ウナボーチェジャパンのHPをご参照いただきたい。

http://uvj.jp/mass/5671/

なお拝領形式については「特別形式ミサ」では、信者の拝領形式が「口での拝領である」ことも「特別形式」ということになるようだ。

「特別形式ミサ」は拝領方式を選択するのではなく「口での拝領が前提」になっていると思っていただいたほうが良いと思う。


晴佐久神父の福音の村ブログに、無人島キャンプの話が載っていたのだか、読んでいてとても羨ましくなった。

http://www.fukuinnomura.com/

ちょっとしたレジャーや旅行でも、自然と触れ合った気にはなるのだが、無人島のような「そのままの自然」ともなると、感動の深さもかなり違ってくるだろう。

自分の経験でも、やはり設備や道具が整ったオートキャンプより、若いときに体験した、自然に溶け込むような「野営」のほうが楽しかった。

無人島ともなると、べた凪のときはパチャパチャ浜辺で遊ぶ音ぐらいしか聞こえないらしい。
そういう静かな時間がかなり羨ましい・・・

という具合で、私のように「静寂」に「癒し」を求める人は多いのではないか?


そういうことでは、ちょうど今、全国各地のミニシアターで「大いなる沈黙へ」 という映画が公開されている。

フランスの観想修道院の日常を取材したドキュメンタリー映画だが、こういう映画にしては異例の大ヒットとなっているらしい。

ナレーションが無い。BGMもない。

約3時間、淡々と修道院の日常と周りの情景が描写されるだけの映画である。

しかし、私も含め「静寂」に「癒し」を求めて観に来た人が多かったと思うのだが、期待どうりとはいかなかったのではないか?

場面がかなり頻繁に切り替わるため、見ている観客は、画面の状況がよく理解できず自分の視点も定まらない。

会話のない沈黙というのは、癒されるような静寂ではなく、非常に緊張感のある静寂で、その状態がひたすら続く。

もっとも、BGMが無いと日常の生活音がかなり強調されるので、これは、はたしてこれが「静寂」なのかどうか・・・

修道院の日常も、かなり細かく時間が区切られているようで、(のどかなシーンがないわけではないが)けっこう忙しそうな感じもあった。

そして、日常音が消え闇となると、一気に緊張感が強まる。

聖務日課は聖堂で行われるようだが、映画では真夜中の聖務日課の場面が強調されていた。

「鐘の音」「グレゴリアン」「ろうそくの火」が、見終わっても頭から離れない。

私が見て来た映画館では、シニア層を中心にご婦人が多かったのだが、スクリーンが閉じた後に「ああくたびれた・・・」という素直な感想が耳に入ってきた。

この3時間は確かに疲れた・・・


ただし強烈な印象が残る映画である。

「絵」としての美しさというのは確かにあって、映像美の印象の強さというものがかなりあるのだが、それだけではなく、自分自身が「可視世界と心の世界」を行き来しているような怖さがある・・・

もしかしてこれは「畏れ」

感想をもう少し的確にまとめたいが、書き続ければかなり長くなるし、印象に残っている部分も整理できず混乱しているので、中途半端だが感想はこのくらいにしたほうがいいかもしれない。

この映画の観想修道院の生活は現実世界における事実なので、私などが感想を述べてもチャラいし、この世界を表現しきれない。

「大いなる沈黙へ」は、かなりクオリアを刺激する映画であり、(おそらくカトリック信者は)「『畏れ』を感じる映画」(ではないか?)とだけお伝えしたいと思う。


最後に、カトリックのブログとしてもうひとつの「沈黙」についても話題にしたい。

遠藤周作原作の、映画「沈黙」がハリウッドで制作されていて、来年にも公開されるらしい。

おそらくこの「沈黙」も、かなり重厚な映画となるのではないか?

前回、「死に方を選ぶ時代」というタイトルで、高齢者介護の終末期において「『AHN(人工的栄養摂取)を望むか望まないか』という死に方の選択、意思決定が必要になっている」ということを書いたが、介護に直面していない方には解りにくかったかもしれない。

少し説明不足でもあったのでもう少し細かく述べたい。

人間は食べることで生きるために必要な水分や栄養分を摂取する。

しかし認知症の進行によって、食べる意思の減退や、誤嚥(食物を食道ではなく気管に入れる飲み込みのトラブル)が起きやすくなってくる。

この誤嚥は、肺炎を招きやすい。
高齢者の死因で肺炎が多いのは、この誤嚥の為である。

AHN(人工的栄養摂取)というのは、この口からの栄養摂取が困難になった場合の処置として導入される。

胃瘻(「いろう」 腹壁を切開して胃に管を通し、栄養、水分、薬剤などを注入する方法)が有名だ。

この管が苦痛の原因になる。

身体を動かす自由がかなり制限されるからだ。

加えて重度の認知症高齢者の場合は、管を外そうとしてしまうことが多く、トラブルを回避するために手首を拘束しなければならない状況になりやすい。

それも一時的にというのではなく常時拘束となってしまうのだから、もうこれは苦痛を与えている状態としか思えない。

自分の意思とは別に、重い苦しみを抱えながらも、AHNによって生かされる。

この状態は、果たして神様の御心にかなう状態なのか?

家族は苦しみ悩む。


認知症になるまえに「自分の終末期において、AHNを望むのか、拒否するのか」を決めておく、意思決定しておくことは極めて大事だ。

認知症は兆しがあるから、診断を受けて認知症告知をされたときが、意思決定をするタイムリミットかもしれない。


「なすがまま」「そのときはそのとき」という、死の現実を直視したくないという人も多いとは思う。

しかし高齢者介護の終末期における、AHNがもたらす苦しみというものから目を背けていると、大変なことになるということを少しでも多くの人に知って欲しい。


なお、AHNは、上記の胃瘻だけではなく、高カロリー輸液(IVH)という一種の点滴もある。

胃瘻は導入決定において、もたらされる状態を想像しやすく意思をはさみやすいが、高カロリー輸液(IVH)は緊急的な救命処置ということで処置をされる場合があり、家族は高カロリー輸液がAHNとなるという理解、認識をしていない場合がある。

本来は救命の為の医療技術だが、結果的に経口摂取できない認知症高齢者の終末期の延命処置に使用されているのである。


食べることは生きること。
食べられなくなったときが人生のエンディング。

やはり自分の意思で自分の死について「自然死を望む」ということぐらいの意思決定はしておきたい。

私は、まだ現役世代だが、エンディングノートを書かなければと思った。




AHNについてかなり否定的な書き方になった。


少し希望を持てることも書いたほうがいいかもしれない。

介護施設によっては、やむおえず胃瘻状態になっても、可能な限り経口摂取を試みてくれる施設があると聞く。
再び経口摂取ができるようになり、胃瘻を外せることもあるらしい。

また、認知症ではない高齢者が、自らの意思でAHNを選ぶことにによって、延命できることは本来は良いことだ。


自らの意思で選択ができなった重度の認知症高齢者におけるAHN処置の問題として、上記の話を読んでいただけたらと思う。

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