カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2014年07月

また寅さんの話を書きましたので、タイアップして2012年3月に書いた下記記事の公開日を再更新します。
2014/7/19公開日再更新
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サントリーの新しい炭酸飲料オランジーナのCMで リチャード・ギアさんがフランス人版フーテンの寅さん演じていますが、いい感じですねえ。
渥美清さんの「フーテンの寅さん」。思い出します。
「フランス人寅さん」を見ていて思うのは、寅さん的な人物像というのは案外日本人的ではないのかもしれないと思いました。
はっきりモノを言ったり、気まぐれだったり・・・・・

(難問山積でしかたない面もありますが)現代の日本は、マスコミに悲観論の人が何となく多い感じ。
その影響なのか全般的に楽天的な人が減ってきているような気がする。
現代の日本では、寅さんのような底抜けに楽天的な人物像は輝いて見えます。

映画「男はつらいよ」の監督は山田洋次さんですが、山田さんの映画をカトリック視点で調べてみるといろいろおもしろい。

「男はつらいよ」第20作では、桜井センリさんが演じる神父が登場するらしい。桜井センリさんの神父。見てみたいですねえ・・

第41作は、ウィーンロケの特別版。これは見たことがあります。
ウィーンの街で現地の神父に「御前様よいお天気で!!」と日本語で声をかけ挨拶するシーンが傑作!!!

山田洋次監督がうまいのは、寅さんをただ単に楽天的なイキのいいお調子者というだけではなく、女性と御前様(聖職者)に対しては、だらしなくならない折目正しい人物像にしたところがポイントだったんでしょうね
寅さんにとって、憧れの女性は「花のように可憐で守るべきもの」であり、御前様に対しては「人を導く師」として尊敬する。節度保つ。
さわやかさと安心感を与える人物像になっています。

「男はつらいよ」ではないですが、山田洋次監督作品には、長崎の伊王島の炭坑から北海道に移住する家族を描いた「家族」という名作があります。この主人公の家族がカトリックという設定。
私の母親は、この映画が大変好きで、自分の家族と二重写しになるようです。

渥美清さん。
ご本人は必ずしも寅さん的なタイプではない方だったようで、寅さんを演じ続けなければならない苦労があったようです。
あまりにも長い間、役者として寅さんを演じてしまい、寅さん以外のキャラクターを演じることが難しくなってしまいましたが、寅さんという「典型」を世に残したことは偉大な功績となりました。
映画「男はつらいよ」は、もう終わりましたが、寅さんの「類型」のような人を見ると、ムクムクムクと頭の中で「フーテンの寅さん」が甦ってくる感じがします。「フーテンの寅さん」の存在感は強烈です。

渥美清さんは、1996年に病気で68才に亡くなりますが、年齢的に早く、惜しまれる死でした。
奥様が熱心なカトリックだったようで、病床のおりに渥美清さんはカトリックの洗礼を受けておられるようです。


テレビドラマの、キャスティングや役者の演技について、家族で語り合うのは楽しい。

自分なりに人物イメージを描いている歴史ドラマなんかでは特にそう。

「やはり秀吉はこの人だね!」というような「はまり役」というのもあるし
「意外なキャスティングだったがこの信長はなかなかいいね!」というのもあります。

意外なキャスティングが巷で話題になるような場合は、プロデューサーさんとしては、おそらく「してやったり」という感じなんでしょうね。


若手女優の倉科カナさんの言葉ですが、役者にとって演じるということは「キャラクターの人生を生きること」だそうです。
http://www.filesend.to/plans/career/body.php?od=120424.html&pc=4

キャスティングと演技力によってキャラクターにただならぬ存在感が生まれているときは「役者がキャラクターに転生?している!」ということになるんでしょうか?


こういう話で思い出されるのが、フーテンの寅さんを演じ続けた渥美清さんの事です。

以前も書きましたが、寅さんを演じ続けた渥美清さんは、私生活では、必ずしも寅さん的なタイプではなかったらしい。

おそらく寅さんのイメージから脱却したいと思っていたでしょうが、寅さんほどの存在感になると、対極のキャラクターを演じて「フーテンの寅」のイメージを壊すことも難しいし、かといって寅次郎に同化しつづけるのも、架空の人物に自分の存在を乗っ取られそうになるような感じを持ったかもしれません。

渥美さんは寅次郎の事をどんなふうに思っていたんだろう・・・

寅次郎の目線で渥美清を見ている事があったりして・・・

渥美清さんは、本当に渥美清と車寅次郎の二人分の人生を生きたんでしょうか?

少しミステリアスです。


演じるということについて、演出家の平田オリザさんも「生きることは演じること」という言い方をされています。

以下の青字は平田さんの話。
http://diamond.jp/articles/-/13438

ペルソナ(仮面)という言葉があります。人は社会的な関係のなかでいろいろな仮面をかぶって生きています。たとえば大人の男性ならば、「夫」や「サラリーマン」「マンションの管理役員」「週末のボランティア」など、社会生活のなかでさまざまな役柄を演じながら、かろうじて人生を前に進めている。

 日本人は演じるという事に抵抗があり、自分を偽る、自分に嘘をつくというイメージが強いのですが、なにも仮面をかぶることが悪いわけではない。むしろ本来の自分などなく、いろいろな仮面が自分というものを形成しているのだ、と考えるべきなのです。


ネット社会になって、ハンドルネームというものを使うようになった現代、平田さんの話は、何か実感してしまうところがあります。

「本来の自分などない。いろいろな仮面が自分を形成する・・・」

考え込むととても難しい話ですが、渥美清さんが車寅次郎と共存して生きたように、私たちも、様々なペルソナを持って生きている。

ペルソナが影響し合いながら「自分」を高めていけるようにしたいものです。


ところで、平田オリザさんのお芝居の演出ですが、

「ときに聞き取れないようなぼそぼそした声で喋る」
「複数の会話が同時進行する」
「役者が観客に背を向けて喋る」

といったある意味、演劇とは思いがたい?淡々とした演出だそうで、これは「人間の日常はドラマティックな出来事の連続ではなく、静かで淡々とした時間が多くを占めるが、人間のそのものの存在が十分に劇的であり、驚きに満ちている」という考えによるものだそうです。

私は、演劇もミュージカルも歌舞伎も、このところほとんど見てないのですが、なんだか平田さんのお芝居を見たくなりました。

平和は尊い。

誰も平和がイヤだという人はいないのに、日本においては憲法をめぐって意見が食い違う。

争点は過去より、護憲か改憲かというラインなのですが、最近もっと根本的な憲法の理念の賛否について争点にしたほうが良いと思い始めました。

つまり、「日本国憲法の理念は正しいが条文に不備がある」という改憲と「日本国憲法は破棄すべきである」というのとではやはり意味が違うからです。

石原慎太郎さんが「日本国憲法は破棄すべきである」という主張のもとに、日本維新の会を離脱しました。
これは政治をわかりやすくするということでは良かった。
同じ主張の議員は、石原新党に加わって立場を鮮明にしてほしい。 

そうしてもらうことで、ハッキリ支持不支持の線を引けるというものです。

私は、「現行憲法破棄論」というのは、戦後民主主義を全面否定する主張のように感じるので、その主張については明確な拒否感がある。

「現行憲法を破棄し自衛隊を国軍にする」そのような姿になった日本が果たして戦争の歴史を学んだ姿といえるのか、想像力を持って考えれば、その姿はもう許容できる姿ではなくなっています。

戦後の日本が、まがりなりにも平和を保てたのは「憲法」と「安保、自衛隊」が併存しつつ機能してきたからじゃないのか?

私は「『安保、自衛隊』は決して否定しないが『現行憲法』は大事」だと思います。

条文修正は拒否しませんが、憲法の「理念堅持」ということでは私も護憲派なんでしょう。


その「護憲」を最も重視する政党は社民党。

しかし私のようなタイプの人間が、護憲政党である社民党を支持してきたというと全く違っていて、むしろ社民党は一番嫌いな政党です。

福島前党首がプロライフ視点で最も許容できない政治家ナンバーワンだし、護憲の主張も一言一句変える事を許さないという姿勢が教条的で全く共感できない。
拉致問題での欺瞞的対応というのもありました。


ところがその社民党ですが、選挙を重ねるごとの、壊滅的敗北を経て、ようやく過去の教条的姿勢に対する反省が生まれているようです。

http://www5.sdp.or.jp/special/kenpo/116teruya.htm

「護憲派の主張や運動が教条的で、市民や若者らにわかり易く説明し、語りかけない胡散臭さも感じていた。」
「市民が権力と対峙するためには、少しでも意見が違うと『本物じゃない』などとどんどん排除していき、自分たちで勢力を小さくしていくというくり返しをやめないといけない。」


という言葉がホームページにありました。

「今頃、気づいてももう遅い。もう手遅れ」と思いますが、少なくとも「話し合うことの大事さ」に気づいたことだけはマルでしょう。 

なぜ支持政党でもない「社民党の反省」について、今回、ブログの記事にしたのか?

カトリック教会の一員である私は、やはり「正平協」のことが、頭をかすめるからなんですよね。

晴佐久神父が、「福音の村ブログ」の最新記事でバチカンの教皇祭壇のことについて書かれていました。
ということでタイミングを合わせて、2010年6月の拙ブログのこの記事もタイアップして再更新します。(勝手にすみません)

ロダンもテーマにした、この「地獄の門」に、聖書において打ち勝つのが「岩(ペトロ)の上にあるわたし(キリスト)の教会」なんですよね。

サン・ピエトロ大聖堂をそのシンボルとして見ると何かとても印象深いです。
2014/7/7再更新
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おもわぬことで西洋美術館を訪れてから、宗教画(宗教美術)の魅力にとりつかれてしまいました。
今まで知らないことが多すぎた。例えば、鳩が聖霊のシンボルとして描かれるとか知らなかった。
知らないことを知ると見方が変わりますね。
しばらく宗教美術の話が多くなると思いますが、よろしければおつきあいください。

というわけで、またもや西美の話になりますが、実は彫刻もインパクトがあったんです。
地獄の門 ロダンの「地獄の門」
「13-14世紀イタリアの詩人、ダンテ・アリギエーリ の叙事詩『神曲』地獄篇第3歌に登場する地獄への入口の門」を主題としたもの。
黒くぬめっと光るゴテゴテした塊が、ねじくれた人の姿だったりして、かなりおどろおどろしい。
残念な事に私はダンテの「神曲」を読んでいないので、ストーリーに思いをはせる事は出来ませんでしたが、造形を見るだけでもあまりのおどろおどろしさに心臓の鼓動が早くなりました。

神曲では「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」という言葉が銘文であるとのことですがどこかにあるのでしょうか?
探しましたがよくわかりませんでした。

仮にもしこの扉を開くとなにが見えるのか?
別の世界、地獄の世界がひろがるのか?
「ドラえもんのどこでもドア」のようですが怖いですね。

開いても見える情景が変わらなければ、それはそれで恐ろしい。
この世が地獄ということになりますからね。やっかいな彫刻です。
開かないように塊にはなっていると思いますが・・・

一目見たら、目に焼き付いてしまう。強い印象を残した彫刻でした。

マズローの欲求五段階説という説がある。

人間の欲求というものは段階を経て、変化していくらしい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96

1番目は、「生理的欲求(Physiological needs)」
2番目は、「安全の欲求(Safety needs)」
3番目は、「所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)」
4番目は、「承認(尊重)の欲求(Esteem)」
5番目は、「自己実現の欲求(Self-actualization)」

ということのようです。

1番目から4番目までは、欠乏欲求の段階。「満たされたい」という思い。
5番目は、存在欲求の段階。「かくありたい」という思い。

さらに、5番目を超えた欲求として、6番目に「自己超越欲求」があるということもマズロー氏は述べてます。
次の10項目が自己超越の段階の特徴。

1.「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
2.「在ること」(Being)のレベルにおいて生きている
3. 統合された意識を持つ
4. 落ち着いていて、瞑想的な認知をする
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
7. 創造的である
8. 謙虚である
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)

「自己超越欲求」は、ちょっとわかりにくいですが、「11.外見は普通である」のところは唐突で「何でやねん!」という関西人的なツッコミを入れたくなったりして・・・

このマズローの欲求五段階説は、ビジネスの現場でも時にマーケティングで引用されたりするようですし、そこそこ有名な学説だと思います。


しかし「本当にこの五段階かな?」と思ったりしませんか?

ちょっとキレイに整理されすぎているというか、こんなに単純化できないような感じも・・・

例えば、1番目の「生理的欲求」にしたって、食欲を満たす時に、その過程で「味覚」を感じてしまうでしょう。

またまたクオリアの話みたいになりますが「美味しい!」と感じたときに、そこで生じる達成感は空腹を満たした満足感だけではないし、またまた食欲という快楽を満たした喜びということだけでもなかったりするわけです。

以前、拙ブログで、「故郷の味は体が覚えている」(2012年09月29日) という記事を書きましたが、「美味しい」と感じたその瞬間に「望郷の念」が呼び起こされて、言葉にできない感情がブワァ〜と拡がったりということもあったり・・・

私にはこういうことが「『生理的欲求』が満たされた瞬間に、記憶が呼び起こされ即座に『所属と愛の欲求』に移行した」というふうには考えられなかったりします。

難しいですよね・・・


しかしケチをつけるのはやめときましょう。
「欲求」というものを分析して体系化しようとしたことは大変興味深いです。

人間には、より高度な欲求に移行する向上心というものがあるのも事実だし、欲求の深さ強さというものも、人生の深みのような気がします。

人生訓として興味を感じるところもある。

そんな感じです。


カトリックについてのブログなので、最後にこの話に関連する聖書の引用で絞めましょう。

「上にあるものを求めよ」(コロサイ人への手紙 3章)

というあたりでしょうか。


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