カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2014年05月

前々回「クオリア」の話に絡んで

「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」(マルコ福音書第5章)

という箇所を例にあげました。

少し控えめな感じが日本人的で、心のDNAというか琴線に触れる感じがしますが、マルコ福音書第5章のこの箇所に、私はとても共感します。

人生を振り返れば、自分も同じような心境になったことが、何回もあるからです。

自分の力ではどうしようもない時。必死で神様を求める。

聖書では、触れた瞬間に、 「病気が治ったと感じ」そしてキリストも「私の服に触れたのはだれか」と気づきます。

苦しむ人が「気づいてもらった」ことによって苦しみから解放される。

奇跡とは「感じる」「気づく」ことで奇跡とわかるということなのかもしれません。

「気づく」という意味では「エマオの晩餐」も 「二人の目が開きそれがイエズスであったと悟った」(ルカ福音書24章)という記述なので、やはり「気づき」です。

エマオの晩餐


「しるしに気づく」ということが、クオリアの作用と考えるならば、ミサに荘厳さを望んだり、神秘的なところに気持ちが引っぱられるのも「しるしに気づきたい」気持ちのあらわれなのかもしれません。

はたして私に「しるしに気づく」クオリアがあるのか?

いやあるはずなのだが、「『しるしに気づく』クオリアが私にもある」ということに気づいていないのか???

「神様を感じる」ということに少し信仰の重心があるのも、少しアニミズム的というか、これまた日本人的な宗教観なのでしょうか?

なんだか自分でもよくわかりませんが、最近、私の興味関心はこのことになってきました・・・

「ヴァチカンのミサをネットで見れる時代というのはありがたい」ということを、少し前に「やはりヴァチカンのミサは・・・」というタイトルで書きました。

技術の進歩でローマに行かなくてもパソコンで見れるとか・・・

典礼的にグレゴリアンを排除している小教区がありますから、ヴァチカンの典礼を目で見て認識を改めてほしいとか・・・

現在の教会の事として確かにそういうことはあります。

しかしそれだけではない。

日本の信徒の心情において大変重要な意味を持つような気がしてきました。

何故かと言えば、日本でのキリスト教の歴史は、そのほとんどが弾圧迫害の歴史で、その時はキリスト教世界との接触を完全に遮断されてきたからです。

日本の迫害時代のキリスト教宣教の物的遺産というものは非常に少ないのですが、残されたものの図柄を見ると、ローマと言うかヨーロッパのキリスト教世界との絆、憧憬を強く感じます。

今回再びキリシタン時代の物的遺産の画像をアップしたいと思います。
これは2点とも当時の日本国内で制作されたものです。

amakusasirou zinntyuuki 11

天草四郎陣中旗 綸子地著色聖体秘蹟図指物
(りんずじちゃくしょくせいたいひせきずさしもの)

上部の古ポルトガル語は
「いとも尊き聖体の秘蹟ほめ尊まれ給え(文化庁訳)」

マリア十五玄義図1PNG

原田家本マリア十五玄義図


想像ですが、キリシタンであった信仰上のご先祖様達は、厳しい弾圧迫害ゆえに大変な苦しみを背負いましたから、その胸中には、もう情念のような強さで「ローマに対する限りない憧れ」が膨らんだと思うんですね。

いわば、殉教者の流した血でつながってきた絆。

これらの信仰の物的遺産を見るたびにそんなことを思います。

「ローマに対する限りない憧れ」

この心情を私も大切にしたいと思います。

日本のカトリック教会には、その遺伝子が刻まれていると信じたいですね。

クオリアについては、茂木健一郎さんが既にいろいろ書かれていて、世間での関心事に、いま私も巻き込まれたということがわかりました。

「体と心」「脳と心」の話は「心脳問題」というみたいですが、やはり面白い!

ハマってしまうと本を何冊も買いたくなってしまうので出費的には危険な興味です(笑)

素人向けに比較的わかりやすい本を書かれている茂木さんの本ですら一冊も読んでいないなかで、全く知見もないのに、クオリアについてブログでテーマアップしてしまった・・・
観てもいない映画の感想を述べるような暴挙をしてしまっていますが、個人の日記のブログということで、どうぞ許してください(汗)

「心脳問題」で面白いと思うポイントは、「心は脳が生み出している」という説と「脳の器官の中に【自己意識の座】【意識の中枢】【思惟の主体】【情動の主体】つまり心が見つからない」という対極の説が、結論づけられないために並立しているところです。

やはり「心とは何か?」ということを解明しようとすることは大変難しいということなのでしょう。

それでも、いまこうしてブログを書いている「私」があり「心」があります。
ただし「心」が何なのか、どこにあるのかがわからない。

クオリアが面白いと思ったのは「質感」という表現で説明されたりするから「可視世界と自己意識の中枢である心の世界」をつなぐ接点のようなイメージがあるからなんでしょうね。

「心の世界へのドアのノブ」みたいな感じでしょうか?
(妄想をふくらませて果たしてこんなことまでイメージで語って良いのやら・・・)

もう少し具体的にクオリアをイメージしてみます。
例えば運動会でグランドにちらばった児童のなかから、我が子を探し当てたときの瞬間というのはどうか。
自分にとって意味をもたない情報の識別は大変苦労しますが「我が子の顔」は選別抽出できたりするんです。
見つかった瞬間の「いたあー!」と嬉しくなるような感覚。もしかしてそういう感じも「クオリア」?

それとも「質感」というぐらいだから、「触覚」で考えたほうがわかりやすいだろうか?

そういうことでは、聖書では「触れる」話がけっこう多く書かれているような。

前回引用のヨハネ福音書20章は、まさに「神に触れる」話でした。
傷跡に触れた瞬間、トマスは「我が主よ我が神よ」とキリストを賛美します。
トマスは何を感じたのでしょうか?
事実の確証を得るというだけではない「神に触れる」神秘さを感じます。
このヨハネ福音書20章には有名な「ノリ・メ・タンゲレ( 我に触れるな)」という箇所もありますが、バルバロ訳では「私を引き止めるな」になってますね。

「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」「私の服に触れたのはだれか?」(マルコ福音書第5章)というのもあります。

もしかして聖書は「触れる」クオリアだらけ???

バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画「天地創造」も人祖アダムが神に触れようとする瞬間が描かれているんですよね。これはもう緊張感に溢れてます。

God2-Sistine_Chapel


カトリックのミサではどうか。

聖体奉挙で司祭が「聖体」に触れます。

聖体拝領で「聖体」を食べます。

聖体奉挙や聖体拝領を、視覚情報、触覚情報として脳で認識するだけじゃなくて、クオリア(質感)を感じて、【自己意識の座】【意識の中枢】【思惟の主体】【情動の主体】に届いているか?という事を意識する事がとても重要に感じてきました。

霊魂を信じることを前提にするならば、つまり脳に心はないのだから、視覚情報として脳で認識するだけでは心に届いていないわけです。

トリエント・ミサは、ラテン語なので難しいとされてますが(もちろんラテン語は難しいですが)「重要さを所作でわかりやすく示している」という見方もできます。

わかりやすさという点ではベネディクションも然りです。

聖体奉挙のときに跪くのも然りです。

聖体拝領のときに口で直接いただくのも然りです。
仮に手で拝領するならば、「神」に触れるという意識を持ち、おしいただく謙虚さをもってその感覚、クオリアを体感したほうが良いと思う。

そもそも「荘厳さ」というものが、クオリアを強める高めるためのものであったという事を理解しました。

私が「バンドミサで離れ、トリエントミサで立帰った」理由を、今ようやく納得した。

クオリアの話がなんか局部的な事象に集中してしまいました・・・・

ところで
「その服に触れた。服にでも触れたら私は救われると心に言い聞かせながら。」

ってここの箇所いいですね。ほんとにいい・・・

クオリアという言葉を最近になって知りました。

外部からの刺激(情報)を体の感覚器が捕えると、意識として何らかの質感が経験される。その質感のことをクオリアと呼ぶらしい。
例えば「赤」という光の波長を「赤いという色」として感じる感覚みたいな・・・
ただ外部からの刺激(情報)を客観的な情報として認知する感覚というだけでなく、その認知に伴う主観的な情動の動きはたらきを含めるニュアンスがありそうで、「クオリア」とは何かということが、科学と哲学の両面でテーマになっているようです。

「認知」の状態から「意識」や「心」というものを探り考えるときに「クオリア」は鍵となる言葉になります。

Wikipediaで「クオリア」の意味を調べましたが、難しくてわかったようなわからないような感じで、はたして私の教養や知見で理解することができるのかというのはあるのですが、ただ私の場合、信仰というものがかなり感覚的なので、クオリアという言葉がどうしても非常に気になってくるわけです。

「クオリア」という言葉はアウグスティヌスの著作「神の国」にもでてくるらしい。

先日の復活節第二主日の福音書朗読はヨハネ福音書20節でした。

「私はその手に釘の跡を見、私の指をその釘の跡に入れ、私の手をその脇に入れるまで信じない」

「あなたの指をここに出して私の手を見なさい・・・」

「あなたは私を見たから信じたが私を見ずに信じる人は幸いである」

という聖書のなかでも有名な箇所ですが「クオリア」の概念を頭に入れて読み返すととても含みのある文章に感じてきます。


立花隆さんの「臨死体験」を読んでから「心はどこにある?」ということが気になっていますが、「クオリア」というものに対する好奇心もまた、その関連のなかにあります。

こんなことをアレコレ考えていたら(アレコレ考えてもしかたないんですが・・・)慶応大学の前野隆司教授という方が「脳はなぜ心を作ったのか?」「脳の中の私はなぜ見つからないのか?」という本を書かれているという話を聞きました。

この本はストレートに「自己意識の座」というか「情動の主体」というか「クオリア」が関係してきます。

前野教授は、キャノンでヒューマンロボット研究をしていくなかで脳と心の構造に興味を持ったという非常にユニークな脳研究者。

にわか読書で果たしてどこまで理解できるのかというのはありますが、おそらく「脳の働き(脳の部位)に心が見つからない」という内容であれば、そこのところまではおそらく共感できるような気がします。

ただし「意識は幻想であり、無数の知覚情報を事後的に承認し、それを記憶として保持する際に生起している感覚でしかない」という話になってくるらしく、もうそうなるともう宗教観の違いが明らかになってくる。

私は「意識は幻想」と断定してしまうと、説明できないつじつまが合わないということが多くでてくるような気がします。

ひとこと「霊魂」という言葉をおけば「幻想」ではなくなるのに・・・と思ったり。

しかし極端な主張であるがゆえに、問題提起になってます。

子供のような素直さで「しるし」を見たい気持ちもまた、神を求める情熱の現れのようにも思いますが脳研究者の「心」というものを解明しようという気持ちもまた「しるし」を求める気持ちなんでしょうか?

はたして本当に「心」は幻想なんでしょうか?

クオリアっていったい何なんだ???どこにある???

聖ヨハネ二十三世教皇と聖ヨハネ・パウロ二世の、ヴァチカンでの列聖式ミサをYoutubeで見ました。

http://www.youtube.com/watch?v=QrPcJovQJi4&list=UU7E-LYc1wivk33iyt5bR5zQ

こういった特別なヴァチカンのミサは、荘厳さといい、規模といい、もう桁違いでモノ凄いというか・・・

様々な国旗を持つ信徒が映っていて世界中から人が集まっていることがわかります。
今回は聖ヨハネ・パウロ二世の出身国のポーランド国旗がやはり多い。

晴佐久神父をはじめ日本人の信者さんも行ってるんですよね。

私も「一度でいいから、ヴァチカンでミサに与ってみたい!!」なんてことをどうしても思います。
日程の確保も費用もままならないですが、素朴な願望として多くのカトリック信者が持つ共通の思いでしょう。

人種や民族を越えて一つのミサに与れる素晴しさをあらためて感じます。

「求心力としてヴァチカンがある」ということを実感です。


ミサ通常文聖歌は、一番なじみ深いグレゴリアンのキリアーレ8番でした。
こういうミサでは(あたりまえですが)やはり聖歌はグレゴリオ聖歌。
グレゴリオ聖歌は世界中の信徒と共に唱えるスタンダードであることがわかります。

ヴァチカンと共にあり世界と共にあるグレゴリオ聖歌を、日本では一年をとおして一回も唱わない教会がある(おそらく多い)という現状は、やはり歪な状態です。

現在の日本のカトリック教会のミサで通常使われる典礼聖歌は、日本人の作曲なので日本以外では知られてないだろうし、歌詞も日本語がわからないと理解できない。
典礼聖歌集は日本ぐらいでしか使えない外国では通用しない聖歌集です。
小教区でも外国籍の信者は増えていますが、よく我慢してくれていると思います。

私の所属教会にはもう存在してないですが、グレゴリオ聖歌が載っている昔からのカトリック聖歌集ならば、旅行カバンに入れて渡航すれば「ヴァチカンの列聖式ミサに与っても、聖歌が唱える!」ことになるわけで、これって何げなく凄いことなんじゃないかと思ってしまいました。

やはりグレゴリオ聖歌、カトリック聖歌集は大切です。

拙ブログにおいても「せめて、年に数回でいいので、全ての小教区教会でカトリック聖歌集のアンジェリスミサ(キリアーレ8番)を!!」と、あらためてお願い?させてもらいます。

しかしヴァチカンのミサをネットで見れるって全くたいしたもんだというか・・・

「ありがたい時代になったものだなあ」とお年寄りみたいに感慨にふけってしまいました。

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