カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2014年04月

東京教区の立川の主任司祭であるチェレスティーノ・カヴァニャ神父様の訃報を知りました。

2010年のカテドラルの荘厳司教ミサのミサレットを見て思い出しました。
確かバチカン大使大司教様の通訳をなさっていた神父様です。

立川教会のホームページで経歴を見ましたが、宣教会から東京教区に移籍なさっていたんですね。
日本の教会のためにその身を捧げた生涯です。

まだそれほどのお年ではなかったのに思いもよらない急死ですから、本国のご親族や立川教会の信者さんもショックだと思います。

荘厳司教ミサでの姿を思い浮かべつつ、今後のご活躍をも思うと本当に惜しい方を亡くしたと思いました。
天国での永遠の安息をお祈りしたいと思います。


こういうことが起きると、小教区での司牧を担う神父に休日ってあるんだろうか?と心配になった。

ふだんこういう気遣いをあまりしてなかったような・・・

神父という仕事は、励めば励むほど体を休める時間を消耗してしまい、疲労がどんどんたまるんじゃないでしょうか?
高齢化がどんどん進んでいるから、病者の塗油など、時間を選ばない呼び出しもおそらく増えてると思う。

悩みを抱える人に寄り添う、支えるということでも、心の疲労は相当なもの。

目前のことだけでなく教会の将来的な事や霊的な事にこころを割く時間もいると思います。

「毎週○曜日は休息の日(または黙想の日)」と宣言して休んでもらったほうが、いいような気がする。

小教区司牧で疲労している多くの神父様にも休息が与えられるようにお祈りします。


ところで話は変わりますが、バチカンで、ヨハネ二十三世 ヨハネ・パウロ二世の列聖式が昨日行われました。
ヨハネ・パウロ二世の場合は日本の地を踏んだ新たな聖人の誕生ということに。
そういう意味では、ゼノさんに出会っている人が、また聖人になったという見方も!!

ヨハネ・パウロ二世とゼノさんの感動の対面を思い出します。
列聖式は Youtube で見れますね。

ゼノさんの面影に似た人が画面にチラっと映ったりして・・・

もしそんな事があったらなあとか妄想してしまう私・・・


このところ、気持ちの波動というか浮き沈みというか、復活祭が近づいていたのに気分が塞いでました。

ブログそのものが、やはり日記なんでボヤキ、グチになりやすいんですが、すみませんが書かさせてください。

気分が塞いでいたのは、やはり悩み事が原因です。

アレコレいろいろ悩みはあるのですが、今回は新しい悩み事が教会で起きたということがいまいましい。
たいしたことではないのですが「本来、救われたいところのになんで・・・」という感じ。

そんな教会での悩み事というのはズバリ「人間関係」だったりします。

やはり人の集まりなんでそういう事は浮き世の悩み事とたいして変わらないのです。

正直、苦手な人がいる。 

少し間合いをとれていたら別にいいんですが、接点を持たないといけない状況になってしまうときがあるんですね。
そして案の定、対話をしても気持ちがつながらない。
「そんなんじゃダメですよ」と非難したくなる感情がわいてくる。

しかしこの人の状態をよく見ると、実は自分のイヤな部分と似ています。

「イヤな部分を見たくない」というような忌避感情と、そういう感情を持つ自分に対する自己嫌悪で、少し後になってもまだ尾を引いて気が滅入ります。

聖週間は平日もミサがあり、聖金曜日も行きましたが、そんな事があったので何か気持ちが高まりませんでした。

このところ、晴佐久神父の説教集を読み続けていたのですが、晴佐久神父は何度も「ミサにはパーフェクトな救いがある」と語ります。

しかしその言葉に半信半疑になるというか、そういうテンションの低下にまたイライラし、土曜になってもまだ最低の気分が続いてた。

そんな状態のままで、昨晩、復活徹夜祭のミサのために教会に向いました。


しかし・・・

復活徹夜祭のミサは良い意味でやはり普通のミサと違う。

偶然ですが、まず司式司祭のローテーションが私にとって良かった。

日本に来て日が浅くまだ若いアジア人の神父様の司式ですが、私の教会においては日本人司祭よりアジア人の神父様のミサのほうが、あらゆるところが丁寧なので私は好きなのです。
アジア人神父様も普段以上に気合い(という言葉でいいのかな?)が入ってました。

復活徹夜祭では、復活のロウソクをかかげての入場があったり聖書朗読も何回もあって、荘厳さが増します。

そしてこのミサでは洗礼式がある。

晴佐久神父の本では「秘跡は、神の愛の、目に見えるしるし」と書かれてますが、
目の前で行われる洗礼式の場に立ち会うと、洗礼は単なる入信式ではなく、1人の人の人生を変えてしまう秘跡であることを実感してきます。

2007年の晴佐久神父の高円寺教会。
復活徹夜祭で84人の受洗者が並んだ洗礼式の情景というのはどんな情景だったんでしょうか・・・
一度に84人というのは、普通の教会どころかカテドラルでもほとんどありえない大人数。
「目に見えるしるし」という言葉が現実のものとして感じる迫力があったんじゃないでしょうか?

しかし人数が少なくても洗礼式は感動します。

やはり洗礼式に伴う連祷!

この連祷で私の塞いでいた気持ちも変わった。

そして聖歌も滅多に唱わないラテン語聖歌!

ラテン語聖歌はクリスマスと復活祭ぐらいしかないですが、やはり私にとってラテン語聖歌は大きな癒しです。

典礼暦のなかで、一年で一番力強いミサともいえる復活徹夜祭ミサで、小さな私の躓き、スランプも解消されたような・・・

「ミサにはパーフェクトな救いがある」という言葉が頭をよぎる夜でした。

みなさん

主のご復活おめでとうございます!!

また「説教や講話について」の話になるのですが「つまらない」(重ね重ねすいません)説教だからといって別に害があるということはない。

しかし期待はします。やはり心に残るいい話を聞きたいので。

途中まではいい話なのに「結局オチはそれか・・・」という説教があるというコメントももらいました。

そういう説教は残念ですよね。
話の中のいいところだけ大事に心に留めて、残念な箇所はスルーするという感じでしょうか。

ただ「残念」というレベルを越えて「悩む説教」「気が滅入る講話」というのも事実あります。

いつもと違う神父が講演講話で私の小教区に来る時や、別の教会のミサに行った時などハプニング的に・・・

 「説教や講話で気が滅入る? そんな事があるんですか?」と聞かれそうですが、少し前に、大阪教区の有名な神父の講話を聞いたのですが、どうしてもスルーできない内容だった。

名誉教皇(前教皇)を揶揄する内容。

ストレートに失礼な表現で驚きました。

信じられないと思う人もいると思いますが事実です。

カトリックの司祭でありながら、どうしてそういう話ができるのか?

話の内容以前に、そういう姿勢にかなり気が滅入るものがありました。


この神父の話は「第二ヴァチカン公会議というものを経て、カトリック教会は全く違うものに刷新された」という主張がベースにあります。

こういう話を聞いて「なるほど」と思えれば、私のカトリック人生も楽になるのですが、やはりそうはなれない。
 
誤謬だからです。

このような「第二バチカン公会議ですべて変わった」とするような話は、「断絶と不連続とする解釈」ということで名誉教皇(前教皇)ベネディクト16世によって明確に否定されている。

以前大阪教区の友人がブログでこの箇所を抜粋して掲載し教えてくれました。

ベネディクト16世がこの話をされたのは、2005年12月22日の「教皇ベネディクト16世の教皇庁に対する降誕祭のあいさつ」です。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message81.htm

不連続による解釈法は、あえて公会議前の教会と公会議後の教会の断絶を帰結させます。この解釈法は、 公会議文書そのものは公会議の真の精神をまだ表現していないといいます。この解釈法の主張によれば、公会議文書は妥協の産物です。すなわち、一致を得るために、今や的はずれな、多くの古い事柄を残し、再確認することが必要だったというのです。しかし、公会議の真の精神は、こうした妥協の中に見いだすことの できるものではありません。


わかりやすく明確で、「不連続による解釈法」がまかり通る日本のカトリック教会にとって、とても大事な話です。

「第二バチカン公会議ですべて変わった」というような説教や講話にスッキリしないカトリック信者の人に少しでも共有してもらうために、今回も私のブログでもURLを紹介させてもらいました。
一度ぜひ上記のURLをご覧ください。


この「不連続神父の断絶講話」は、やはり名誉教皇(前教皇)を揶揄する話が強烈で、しばらく気が滅入ったままのモヤモヤした状態でしたが、気分を変えよう思って読んだ本で解消しました。

その本は晴佐久神父の説教集なんですが、いつもと違う感じのところが目に止まった。
 
ちょっと引用します。

「(神学校で)かつては教会でミサをして、洗礼を授けてという司祭像だったけれども、これからは社会を福音化するために、人々に奉仕する司祭像が重要である。というふうな話がでておりました。
それはそれでわからないではないんですが、なんか気になるのは、かつてはこうであって、これからはこうだと、そのような言い方は、カトリックにはなじまないのではないかということです。
カトリックは、かつても、今も、これからも、決して変わることのない真理を大切にしている。
重きをおくポイントが時代と共に変化するのは当然ですけれど、何だか最近あまりにも「かつてはこれで、これからはこれで」ということが強調されすぎていて、バランスが悪い。
ぼくに言わせれば、ミサを大切にし洗礼を授けることと、社会の福音化のために貧しい人に奉仕すること、これは全く同じでしょう。これが違うということであれば、逆にカトリックではないでしょう。」


「不連続による解釈」についての疑問を明らかにされてます。

思わぬ話でしたが、晴佐久神父も名誉教皇(前教皇)と同じじゃないですか。

この本は「希望はここにある」という題名で、この題名で私も気持ちが晴ました。

ハンドルネームを「カトリクニオ」に変えていたのですが、ハンドルネームというよりも偽名のようでどうもしっくりこない。

落ち着かない。

同姓同名の方がいそうな感じがする。

またまた気になってきました。

「カトリだけでいいかな」とも思ったのですが、香取慎吾さんのイメージが強烈だし、「牧場の少女カトリ」というのもあって既存のイメージが出来上がっていてどうもいかん。

もうひとひねりと思って「カトリック」とラテン語の「カトリクス」を合成して「カトリックス」にしたら、不思議とつかみどころのない新しい語感になりました。

本来、だいそれたネーミングですが、一文字加えただけで雰囲気が変わるんですね。

Googleで「カトリックス」を検索すると、いろんな「カトリックス」さんがでてきてイメージも多種多様。

私も、その多様なイメージの中の1人として、マイペースでブログを続けていこうと思います。

ハンドルネームの検討で昨日は、ブログタイトルも含め2転3転いたしました。

混乱した状況となりましてどうもすみませんでした。

先月の19日ですが、驚いたことに国会でカトリック教会のことが質疑応答がされたらしい。

場所は衆議院内閣委員会で質問者は、日本維新の会の中丸啓(ひろむ)議員。

(中丸議員質問)
それでは次に、外務省の欧州局の局長宛に持ち込まれた意見、質問趣意書についておたずねします。これはカトリック教会ですけども、岡山の赤磐市議会議員から届けられた意見趣旨書があるんですけれども、バチカン市国から指名されて日本に配属されているいわゆる司教の方々がどういったことを信者の皆様に対して言っているかということなんですけども、一例をあげてみます。


反政府デモ活動への積極的参加することは、信者の義務であると呼びかけ、宗教指導。
中核派は革マル派が主催する活動デモ・反政府デモへの積極的参加することは、信者の義務であると呼びかけ、信者として反政府意識を持つように呼びかけ、反政府活動は信者の義務だと宗教指導。
宗教の言葉を引用し、日本型社会構造及び文化意識への批判を行い、反対運動というのは信者の義務であると扇動。
憲法改正は戦争を起こす行為であると議論そのものを否定し、また改憲反対活動を信者に義務として奨励し遂行。
いわゆる従軍慰安婦なるものの存在を政府に認めるように求める活動は信者の義務として奨励遂行。


と、 このようなことを、全国のカトリック教会組織を用いて行っているようなんですけど、ここだけ見れば完全な反社会活動と言わざるを得ない内容なんですけども、それについてどうかという趣意書が出ているということなんですけど、今日、外務省の参考人に来ていただいていると思いますので、その取り扱い、今どうされているかを教えていただきたいと思います。

(外務省答弁)
お答え申し上げます。
今、議員がご指摘の紙は当方で受け取っております。
日本国内におけるカトリック教会の動向等について、外務省としてお答えする立場にございませんので、コメントを差し控えさせていただきたいと思います。


(中丸議員質問)
受取ったということだけだと思うんですが、これはほとんど我が国に関する内政干渉、もっと言えば国内騒乱煽動を組織的に行っているとも受け取れるとも思えるんですね。
これがカトリック教会がという意味ではなくて、こういう宗教活動からどんどん発端を発していった、昔、オウム真理教という事件も国内ではあったわけですから、まぁそこまでのものとは思いませんけども、こういう存在があって、外務省として答えられないということであると思うんでしたけども、国家公安委員長、こういった国内での信教の自由を大事にしなければならない、言論の自由を大事にしなければならないということでしょうけども、明らかな反政府活動的なものとなってきたものについて、どういう風に考えていったらいいのか、ご所見を伺いします。

(国家公安委員会答弁)
一般論として申し上げますけども、警察が、そういった諸外国からいろいろな対日の諸工作が仮にあったということで、そう いったことは実は平素から我々も関心をもって集めていますので、具体的な中身の言及についてはご容赦ください。その中で具体的に違法行為というものがある ということならば、私たちは厳正に取り締まっていくという、こういうことが警察の基本スタンスであります。


「反政府活動」「内政干渉」「国内騒乱扇動」だって。

外務省に質問するということは、バチカン市国が謀略を仕掛けているって言う見方?

ちょっと酷いなこれは・・・

今の日本のカトリック教会は、こんな見方をされてるわけ?

この中丸議員、維新の会でも「たちあがれ日本」系のようで、民族主義的というか国家主義的な人の中にはこういう人もやはりいるということがわかります。

カトリック教会に対し、少し穿った見方をしてる。

そして誤認があります。
「信者の義務として」という言葉が何回もでてきますが、そんな事実はなく完全に誤認。

何かの政治運動に、参加を強要されたり義務とされた事実は、私の周囲では全くありません。

日本のどこかの小教区で義務づけがあった? そんな話も聞きませんが・・・


なぜ中丸議員が日本のカトリック教会に目が向いたのかちょっと不可解で、質問そのものにも驚きましたが、私がもっと驚いたのは中丸議員に対し情報を提供し働きかけた一部のカトリック信者がいるという事です。

私も正平協にはかなり不信感がありますし、偏った政治発言に辟易することも多い。

しかし国会議員を通じて政府に働きかけ、国家から教会に圧力をかけて動きを是正させようなんて、そういう発想をすること自体、根本的に、完全に間違っていると思う。

日本でのカトリック教会の歴史は、弾圧迫害の歴史。そのことを忘れたら絶対ダメです。

今回、中丸発言に関与したカトリック信者は、この大変な誤りに気づいてほしいと思います。

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