カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2014年03月


拙ブログをお読みのクリスチャンの方にお尋ねしたいですが、 よく「毎週日曜日に教会に行くの大変じゃないの?」とクリスチャンではない人から尋ねられたことはありませんか?

そういう場合に決まり文句で「いや、いい話が聞けるんですよ!」と言いたいところですが、残念ながら私は、うちの教会についてとてもそんなこと言える自信がない。

私の教会の主任司祭の説教は・・・ホントにつまらない・・・
(ブログではどこの教会かわからないから許してくださいね。m(_ _)m )

「説教がつまらない」なんて書くと少しえらそうな感じですが、批評したいわけじゃない。

毎週日曜日に教会に行きミサに与りながら、ほとんど話(説教)が印象に残らないのはやはり寂しいということを言いたいわけです。

ノンクリ友人に対し「うちの教会のミサへ来てみない?ただし説教は晴佐久神父の説教ブログ『福音の村』がとてもいいですからそちらを読んでみて」と言うのも変だし・・・

もっともわが教会の主任司祭の話を「余計な事を言わないからいい」という人もいます。

また晴佐久神父の説教は「救い」の解釈について問題視する人もいます。

信徒によっても説教に求めるものに違いがあるようだし、私が主任司祭の説教がつまらないと思うのは、教義理解のレベルや感性の問題があるかもしれません。

ただ私は素直に、やはりいい話を聴いて感動したいし、まったく教会に足を運んだ事がない市井の人々でも、心に響くような説教であってほしいと思う。

福音宣教にとって、やはり説教はとても大切なポイントじゃないでしょうか。


ここで冒頭の「毎週日曜日に教会に行くの大変じゃないの?」という質問に戻ります。

ほとんど説教にあまり期待できない私は、いったいどうして毎週日曜日に教会に行くのか?

事実、全く教会に行かなくなっていた事が以前あったわけです。

もちろん公教要理「公教会の六つの掟」 「第一、主日と守るべき祝日とを聖とし、ミサ聖祭にあずかるべし。」というのはあります。

ただ「掟だから」というだけで、イヤイヤ行ってるわけじゃない。

何でかよくわかりません。

いや、説教にあまり期待できない分、自問自答できる私はもしかして幸せなのか?

『エウカリスチア 聖体の秘跡』そのものによって心が引き寄せられる、呼び寄せられているんじゃないか?」と思うことができるからです・・・


今回は、神父様に、説教うんぬんでちょっと余計な事を書いてしまいました。
しかし毎週主日ミサを捧げる神父様方には感謝しています!


3月4月は復活祭(イースター)の季節で、復活祭前の約40日間をカトリック教会では四旬節と呼んでいます。

この四旬節のときに「赦しの秘跡」(世間でいうところの、いわゆる「懺悔」)を受けることが、カトリック教会の信者の努めになっています。

カトリックでは「懺悔」という言い方はしません。
Wikipeを見たら聖公会が「懺悔」みたいですね。

昔は「告解」という言い方をしていました。
「赦しの秘跡」という言い方に変わりましたが、今でも「告解」でかなり通じます。

私の所属小教区は、なぜか「告解室がない。四旬節の黙想会でも告解の時間はない。」という教会なので、今年もまた別の教会に行って「赦しの秘跡(告解)」に与ることにしました。

告解室というのは1人がやっと入れるほどの小さい小部屋で格子窓があり「赦しの秘跡(告解)」は、その格子窓越しに隣の部屋にいる司祭に罪の告白をします。

以前、司祭と直接対面しながら行ったこともありました。
カウンセリングを受けるわけではないので、とてもやりにくかった。

告解室での「赦しの秘跡(告解)」というのは儀式めいていると思う人もいるかもしれませんが、司祭と直接対面しながら行うより、はるかに落ち着いて罪の告白を行うことができるような気がします。

罪の告白の後に「悔い改めの祈り」を唱えます。

「わたしの罪を取り去り、洗い清めてください。」のところで言葉に詰まる・・・

「洗い清めてください。」という言葉が、自分のみじめな気持ちと一緒で、自分自身の言葉のようだった。

そして最後に司祭から「あなたの罪を許します。安心して行きなさい」という言葉をもらって告解室を出ます。

「安心してください」だったか? 聞き間違え?

いや頭の中には「安心して行きなさい」という言葉が残ってる。

【ルカによる福音第7章50節】にあるキリスト御自身の言葉です。

「安心して行きなさい」という言葉に、手触りみたいな感じを覚えました。

赦される喜びというのは、生まれ変わった喜び、というか、罪が全て消えた開放感というか、なかなか表現できず陳腐な言葉になってしまうけど、例えることのできない大きな喜びです。

教会の外に出た時、暗い告解室と明るい屋外の明暗の対比があってだとは思いますがとても眩しかった。

苦手ですが「赦しの秘跡(告解)」は、やはり大事です。


ところで「悔い改めの祈り」についてはいろいろな種類があるようですが「わたしの罪を取り去り、洗い清めてください。」【詩篇第51篇(50)】です。

特別形式ミサ(トリエント・ミサ)の灌水式で「ASPERGES ME, Domine, Hyssopo, et mundabor: lavabisme, et super nivem dealbabor.(主よ、ヒソプもて私にそそぎ給え、私は浄められるであろう。私を洗い給え、私は雪よりも白くなるであろう。)」というのがあるのですが、【詩篇第51篇(50)】を今回バルバロ聖書で読みなおして、これもまた【詩篇第51篇(50)】だったということがわかりました。

意味もわからず聴いていたことが、何だったのかということがわかったこともささやかな喜びでした。

「胸に手を当ててよく考えてみろ!」という言葉は、言い争いの時のキメ台詞ですが、今回は台詞ではなく、所作の話です。

国旗掲揚、国歌斉唱のときに、外国の元首が、「胸に片手を当てる」姿を見ることがあります。
敬意を示す少しスマートな所作。

実は、カトリック教会のミサでも、同じ所作があります。
もしかしたら聖公会など他のキリスト教の礼拝でもあるのかも。

「侍者」(ミサ中、司祭に付き従う主に少年少女の信者)を務める場合、片手に何か持つときは空いたほうの手は常に胸に当てたままにするんです。

侍者の練習光景では「片手はぶらぶらさせない!胸に当てる!」という注意が、指導する大人のお決まりのセリフです。

外国の元首の「胸に片手を当てる礼」は、西欧諸国に多い感じもして、もしかしたらキリスト教と関係があるのかな?と思いました。

なんでこういう話を話題にしたのかといえば、先日の3月11日に、公共施設で弔旗が掲げられていました。

やはり「ドキッ!」として、震災がもたらしさ重さを思い起こします。

弔旗を掲げたからといって、具体的に被災者の為に役に立つようなことは何もおきない。

しかし苦しみと哀しみに寄り添う気持ちを弔旗で示すことは、とても大事だと思いました。

弔旗に対してどのように接したらよいのかその時点では咄嗟には思い浮かばず、そのまま通り過ぎてしまいましたが、もしかしたら少し立ち止まって「胸に片手を当てる」をしても良かったか・・・

そんなことをせんでもいいのですが、さりげない所作ですから、してもそれほど違和感は少ないと思います。

何かを感じても行動をとれないことはあまりにも多く、ほんのささやかな所作ですが、自分の身体を動かすことで行動を促すトリガーになるような、何か意味があるような感じもしてきました。

立ち上がるときに「よしっ!」とかけ声をかけると元気が湧くように、目に見える最初の一歩が大事なような気がします。

「胸に手を当ててよく考えろ」という言葉は人から言われるとカンに障る言葉ですが、自分自身に投げかける言葉としてはいい言葉なのかもしれません。

被災者の苦しみ哀しみを「胸に手を当てて」思い起こす。

やはりイメージとして「心」は脳ではなく胸の中にあるような・・・
そんなこともまたまた思ったり・・・

弔旗と「胸に片手を当てる」所作であれやこれや考えた一日でした。

だいぶ前からどうしようか迷っていたのですが、もうケニッチーというハンドルネームが、イメージ的にちょっと年齢に合わなくなってきている(もともと年齢と合ってなかった?(笑))感じだと思っていましたので、コテハンを打ち破って、とうとうついにHNを改名します。

これからは、ハンドルネームを「カトリ」にします。 
よろしくお願いします。

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ということで本題。

このところ立花隆さんの本、 「臨死体験」を読んでいたのですがようやく読み終えました。

いわゆる「臨死体験」特に「体外離脱」という現象に対し 「現実体験」なのか「脳内現象」なのかを科学的なアプローチを持って徹底的に解明しようとした本。

非常にスリリングな本でした。

立花さんの、あくなき探究心には本当にまいりました。
凄い人ですね。

後半になると「脳内現象説」が強まっていきます。

「臨死体験」は脳の側頭葉の働きが関連しているのではないかという推論がしだいに立ってくる。

話の展開として、ある意味「心」というものが、 「魂」「霊魂」の「働き」ではなく「脳」の中に収納されるのではないかという考え方も迫ってくる。

「心は脳が生み出している」という説は「霊魂」の不在を示すようで、やはり怖い。

脳研究は、外的刺激に対し、脳が認知、判断、指示を下すという情報処理の部分については、いろいろとわかってきているらしい。

脳研究によって「心」がどこにあるか解明される日が来るのでしょうか?

しかし「自己という意識の主体が脳にあり、行動の主体、思惟の主体、情動の主体も脳にある。」という自己意識の座、存在主体のところまでは、なかなか迫り切れないようです。

いくら研究に研究を重ねても、脳の内部に自己意識の中枢が見えてこないため、第一級の脳研究者であっても 「やはり『意識の中枢』は脳にはない」という主張もあるらしい。

少しホッとします・・・

脳研究者には悪いですが 「『意識の中枢』は『私』そのもの。『心』が脳研究でわかってたまるか!」と思ってしまいました。


ソマディタンク(音や光や臭いを遮断し体温と同じ温度で体が沈まないための液にポッカリ浮かぶもの)というものがあるという話も印象に残りました。

外的刺激を限りなく遮断し、筋肉を限りなく弛緩させ感覚を極力遮断するための特殊な装置。

自分の体が消えて、意識の点になったような錯覚になるらしい・・・



晴佐久神父の説教集ブログ「福音の村」を読んで知ったのですが、最近、背広姿の人たちが晴佐久神父のところに来ることが多いらしい。

例えば、世界遺産候補「長崎の教会群」についての応援要請で、長崎県東京事務所の次長さんが来訪。
これはまあ、なんとなくわかる。

しかし、一番新しい説教のなかで話されていた「日本能率協会の人が来た」という話には、ちょっと驚きました。

しかも研修の講師の依頼らしい・・・

日本能率協会といえば、カルチャースクールのような文化系ではない、バリバリのビジネス研修の法人ですよね。

一体全体、日本能率協会とカトリックがどういう関係があるのか?

ちょっと場違いじゃないのか? ぶったまげてしまいました。

そもそも、どうして日本能率協会が研修の講師の依頼するのか?

日本能率協会のホームページで「リーダーのためのリベラルアーツ講座」という研修案内を見て、違和感を感じつつも背景は少しわかりました。
「物事の本質を見抜く力」「本質理解」をするための研修のようです。
産業界が求めるリーダーの姿、人材イメージが、どんどん変わってきたというか深くなってきたのですね。

昨年も、カトリックから1人講師がでています。
ミラノ外国宣教会管区長のブランビッラスカ・フェルッチョ師です。
ブランビッラスカ・フェルッチョ師も、とても話が巧いという評判を聞いたことがあります。

「物事の本質を見抜く力」「本質理解」のために宗教者を講師に招く。
カトリック神父が話すわけですから、「カトリック的な視点での物事の本質理解」とはどうゆうことなのかを話す。

そもそもこの場合の「物事の本質」とはどういうことなのか?
極めて経営理念的な、例えば「企業の使命」とか「なんのために企業(あるいは社会?)は存在するのか」というところに向けて、カトリックの視点で話をしてほしいということなんでしょう。

いわば「背広の世界の人」に晴佐久神父の話がどう響くのか?
幹部候補の大企業の部長職クラスが相手ですから、スリリングな講師だと思います。

「普遍的」という意味であるカトリックの教えに基づく話が「場違い」になるか「共感、理解」になるかは、やはりそこは伝え方次第。
常に市井の人々に目線を向けている晴佐久神父にオファーがくるのはわかる気がします。

日本経済、日本の屋台骨を支える現場のリーダーたちに、カトリック的な考え方、宗教観について、もし共感が拡がるならば、カトリック教会にとっても、とても素晴しいことだと思う。

カトリック教会に講師の依頼が来たというのも、微妙なバランスゆえかもしれません。
やはり仏教の場合は、日本に定着していて序列というか気遣いが必要なのかも知れないですし、カトリック信者の聴講者がおそらくいない(カトリック信者は日本人の0.4%しかいないので数値的可能性としてかなり少ない)ので客観的に話を聞きやすいということなのでしょう。

晴佐久神父は「『神様は私たちを愛しています』という話をしますよ。それでいいですか?」と言ったようですが、「それでもいいです」ということだったらしいです。

講演会場の隅にもぐりこんで、扉のスキマから聴講者の反応を観察したい感じ・・・(笑)

何かワクワクしますね!


ところで能率協会の研修費用は約40万。晴佐久神父の分だけ抜き出して算出したとしても3〜4万?

「多摩教会のミサ説教ブログ『福音の村』ならタダで読めますよ!」と書いてしまうと日本能率協会の研修の営業妨害になってしまいますかねえ・・・


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