カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2013年11月

ところでこのカトリック聖歌集503番のもととなった「Kyriale キリアーレ8番」はいつごろからあったのでしょうか?

国本静三神父様のホームページ(http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/cg_de_angelis.html)によれば

Kyrie と Gloria  は、15〜16世紀
Sanctus は、12世紀
Agnus Dei は、5世紀

の曲らしい・・・

なにげに書いてしまいましたが、カトリック聖歌集というのは、ウン百年前の曲が載っている凄い本なんですね!!

まだカトリック聖歌集を置いている教会の方は、歴史遺産の価値をも認識してもらって、ぜひとも残し続けて欲しいと思います。

もちろん何百年の歴史の重みだけでも感動しますが、曲そのものもとてもいい。

歴史の荒波に揉まれながらも残ってきただけに、やはり普遍的な魅力があるのです。

ということでここまで恐る恐る書きましたが間違ってないだろうか? 
もし詳しい方が読まれていたら、どうぞ指摘してください。
ちょっと不安な感じも・・・

なぜなら私の体験も、子供の頃の遠い記憶(少なくともメロディーを覚えていた)があるだけで、教会に立ち戻ってからのこの数年は、上記のカト聖歌503番508番だけがラテン語の「天使ミサ」には、全く与ったことはないのです。

なぜなら残念ながら私の所属教会には、もうカトリック聖歌集は存在していません。
そして天使ミサは一回もありません。

わざわざ東京に行ってでも、荘厳司教ミサやUVJのトリエント・ミサに与る価値があるというのは、そういう背景があるのです。

私が知っている限りでは関西での天使ミサについては、

「阪神方面のN教会で定期的にあるという噂。」
「何年か前に京都カテドラルの復活祭ミサが天使ミサだったという話。」
「(関西とはいえないですが)名古屋カテドラルのクリスマス深夜ミサは天使ミサらしいという話。」

というぐらい・・・・・

関西での天使ミサ情報を、知っている方がいましたら、どうか教えていただけたら幸いです。


しかし何故、天使ミサをしないのだろうか・・・

日本にも定着した最長千年以上も続くカトリック教会の歴史音楽遺産を、現代で途絶えさせてはいけない。

まさに「祈りの法は信仰の法 Lex orandi, lex credendi 」なのです・・・


前回からの話が続きますが「天使ミサ(Missa De Angelis ミサ・デ・アンジェリス)」とはいったいどういうミサなのか?

カトリック信者のなかでも認識にバラツキがあると思いますし、ブログですからカトリックではない方が読まれることも意識して、少し丁寧に細かく書こうと思います。

天使ミサを、ひと言でというと De Angelis(デ・アンジェリス)というグレゴリオ聖歌で捧げるミサということになります。

この De Angelis(デ・アンジェリス)というグレゴリオ聖歌は、日本のカトリック教会のミサでも時に使用することがある「カトリック聖歌集」にも載っています。
503番の聖歌がそれです。

このカトリック聖歌集503番「De Angelis」は、ミサのなかでも日によって変わらない通常文のところをラテン語のグレゴリオ聖歌で唱うためのもの。

グレゴリオ聖歌の分類上では「De Angelis」は、18種のミサ通常文聖歌「キリアーレ (Kyriale) 」のうちの一つでキリアーレ8番ということになります。

ただ、カト聖歌503番にはPater noster  (パーテルノステル 主の祈り)なども加えて構成されていますので、厳密にはキリアーレ8番と完全一致ではありません。しかしまあだいたい同じと言ってもいいでしょう。

そしてこのミサの場合は、信仰宣言のところでカトリック聖歌集508番(これもグレゴリオ聖歌)を使います。

ヴァチカンでも、キリアーレ8番(カト聖歌503)のときはクレド3番(カト聖歌508)とセットで組合せて唱うようですから何か理由があるのかもしれません。

上記の内容をまとめますと、日本のカトリック教会で、いわゆる「天使ミサ」という場合は、「カト聖歌503番508番を使ってミサ通常文、主の祈り、信仰宣言などをグレゴリオ聖歌で進め、それ以外の聖書朗読、答唱詩編などは日本語で進めることになる(日本語でできる)ミサ」ということになるのだと思います。

つまり「天使ミサ」は「カトリック聖歌集さえあればできる、親しみやすいラテン語ミサ、グレゴリオ聖歌のミサ」なんでしょうね。

カトリックではない方にとっては、カトリック聖歌集が手元にないとやはり説明が少しわかりにくかったでしょうか・・・・・

ところで、このカトリック聖歌集503番(キリアーレ8番「De Angelis」)ですが、さらに細かく分けますと

Kyrie     (キリエ あわれみの賛歌)
Gloria    (グロリア 栄光の賛歌)
Sanctus   (サンクトゥス 感謝の賛歌)
Agnus Dei  (アニュスデイ 平和の賛歌)

などから構成されてます。

私でも(教会を離れてしまっていたときでも)遠い記憶の中で、メロディーはどの曲も覚えていたんですよね。
やはり教会のグレゴリオ聖歌と言えば「カトリック聖歌503番」という定番感があります。
そして503番に合わせて「信仰宣言」で用いるカトリック聖歌集508番「クレド3番 Credo掘廚發泙芯衄崔罎猟衄屐
信者人口の多い長崎のお年寄りカトリック信者だったら、ラテン語歌詞もためらうことなくスラスラ唱えるかもしれません。

カト聖歌503番508番の両方とも、とても印象に残ります。

(つづく)

荘厳司教ミサに与って10日ほどが過ぎました。

山高ければ谷深し・・・

平凡な日常に戻ってしまえば、高揚感もすっかり消えてなんとも寂しい限り。。。
こんな事でいいのか!とも思いますが
私の場合、教会から「離れたり戻ったり」した原因に、ミサそのものの姿が影響がしたので、気持ちの浮き沈みがあるのはもう仕方がないのです。

反芻するみたいに、荘厳司教ミサの時にもらった少し分厚いミサレットをパラパラとめくって見る。
巻末に前年(2012年)に与った人たちの感想が載ってます。

これがなかなかいい・・・

例えば「所属教会の御ミサにイメージしていたカトリック教会を感じることができずにいた」という意見がある。

もう私はこの方にドンピシャ共感ですね。本当に。

荘厳司教ミサでラテン語ミサに共感が広がるのはやはりうれしい。

ラテン語ミサの現状において、他の教区よりも東京教区が一歩も二歩も進んでいるのは、この荘厳司教ミサ23年間の積み重ねの影響が確実にあると思います。

関西ではラテン語ミサの復活は、なかなか進みません。

せめて聖歌だけでも、もう少しラテン語聖歌が浸透して欲しいと思う。

「奉納や拝領のときに聖歌隊がラテン語聖歌を唄うミサ」ぐらいならば全く無いこともないかな。
しかし「聖歌隊もないしラテン語聖歌なんてありえない」というところもある。
ほとんどの小教区教会は、それぐらいの幅のなかにあると思います。

聖歌隊がラテン語聖歌を歌う場合は、頑張ってポリフォニー(多声音楽)だったりします。
しかし聖歌隊が頑張れば頑張るほど「ラテン語聖歌は聖歌隊が唄うもの」というような雰囲気ができてしまうような・・・

こうなるともう悪循環。

やはり会衆が皆で歌えないうちは、ラテン語ミサとは言えないですよね。

もう一歩、進まないと・・・

一歩先にあるのは何かというと、やはり「天使ミサ(ミサ・デ・アンジェリス)」なのだと思います。

(つづく)

毎年の秋の恒例行事。

第23回 荘厳司教ミサのおしらせです

日時:2013年11月9日(土)
   開場    午後2時
   聖母の連祷 午後2時40分 より
   ミサ    午後3時

場所:東京大司教区カテドラル関口教会聖マリア大聖堂

主催: カトリック・アクション同志会

主司式: ペトロ 岡田 武夫 大司教(東京大司教区 教区長)

共同司式:駐日ローマ法王庁大使  ジョゼフ・チェノットゥ 大司教
     他司祭多数(予定)

ミサの意向:- 聖職への召し出しを求めて - Missa Pro Vocationibus ad Sacros Ordines


拙ブログで、何回かご紹介しております「荘厳司教ミサ」ですが
伝統的なローマ・カトリックの典礼の「荘厳で聖なる美しいミサ」を、日本においても、そのままの形で実現することを目的とし、ラテン語、グレゴリオ聖歌で行われます。

カタカナのルビがふってあるミサレットを配布してもらえますので、ラテン語ミサは初めてでも大丈夫。

先日書きましたブログ記事のラテン語の連祷(聖母の連祷)があります。

「荘厳で聖なる美しいミサ」を体感する機会ですので、ご関心をお持ちの方に是非お薦めします。



実家に寄った際に、少年期の写真を見ていたら教会の写真がでてきました。

父や母が写っている写真はいっぱいあるのですが、教会で私が写っている写真があまりないんですね。

「どうして俺の写真ないの?」と母に聞いたら「何言ってんの!あのころほとんど教会に行かなかったじゃない!」という返事が返ってきてズッコケてしまいました・・・

私の(信仰的な)放蕩は少年期から始まっていて「祭日信徒」の状態が続き、壮年期の本格的な放蕩(クリスマス、復活祭ですら教会に行かない状態)に突入ということだったんですね。

都合の悪いことに目をつぶっていたような感じがしました。

筋金入りの放蕩息子ですね。これはもう・・・

私はプロフィールにボンカトとか書いてますが、これはもうハッタリになってます。

私は「自分で信心を育まないと放蕩息子になってしまう」見本です・・・

ある意味、もしかしてボンクリとかボンカトのほうが、放蕩息子率が高いんじゃなかろうか?


なぜこういうことを書くかと言うと、実は、Twitterで話していて「成人洗礼の人はひたむきさにおいてやはり違う」と思うことがありました。

フィーリング信徒じゃないですね。

人それぞれだとは思いますが、やはり「キリスト教に入るべきか止めるか?」「入るならばカトリックかプロテスタントか?」というような、心の格闘を経て洗礼を受ける場合が多いんでしょうね。
教義においても厳格な感じがします。

晴佐久神父に対して否定的な意見もでています。

私はどうなんでしょう・・・

「赦し」について晴佐久神父と、私の理解は本当に一致してるか?
「地獄」の有無についての認識も本当に違いが無いのか?

必ずしも一致してないような気もするのですが、それでも晴佐久神父に惹かれてしまう。

「まあいいや。」
ですませてしまう。

惹かれているのは、実は晴佐久神父の人間的な魅力の部分だったりするわけです。

彼の言葉の輝きには聖霊の働きがあると思いますが、やはりどちらかというと、キリスト教に触れる機会のなかった方のためにあるのかもしれません。

洗礼を受け○○十年経っているわけですから、簡単にスルーしてしまい、より深く知る努力を怠ったらだめですね・・・

私は、形而下的、可視的、典礼的なこだわりは強いのですが、教義については大いに甘い。

しかし厳格さが強まりすぎて非寛容的になるのもいけない気がする。

ようわからん。まとまらん。

こんな状態でいいのか悪いのか?

開き直って、もう私は「凡夫の信仰」「愚者の信心」でいいや・・・という心境にもなったり・・・

そういうことで「凡夫の信仰」「愚者の信心」でググると、なんと浄土真宗のホームページがでてきてしまいました・・・

ご先祖様は浄土真宗でしたが、いまさら浄土真宗にはもどれません。。。。。


いや本当に、どうもすみません。。。。。

↑このページのトップヘ