しかし毎日暑いですね。
昨晩は少しマシでしたが、この数日は、特に湿度が高く、じめっ〜としていて不快極まる感じでした。

節電節約でエアコンの稼働も最小限にしてるので、家の中では、もうマトモな格好はしてられない。

もうランニングに短パン。

もう「おっさんスタイル」

プライベートですから、まあいいでしょう。

ところで、私はともかくとして、最近は、神父であってもラフな格好があたりまえのようになってきました。

私の身近なところの神父も「Tシャツ短パンサンダル履き」・・・

わたしの「おっさんスタイル」と対して変わらないような・・・

「いくらミサのときは着替えるからといっても、主日ミサのある日曜に聖堂のなかで、その格好はやめてくれよ・・・」という感じ。

完全に自分の事を棚に上げてますが(笑)

晴佐久神父でも、「いろいろ神父に文句を言う人がいますが『それならあなたやってみろ!』と言いたくなる」ということなのでチマチマしたことで文句を言うのは気が引けますが、
わたしでもミサや仕事に行くときは、さすがに「Tシャツ短パンサンダル履き」じゃあありませんから、このくらいの事は言ってもいいかもしれません。

「Tシャツ短パンサンダル履き」おっさんスタイルの神父の元祖は誰か?

おそらく釜ヶ崎の本田神父じゃないでしょうか?
「ホームレスの人たちとの気持ちの壁にならないような装い」ということを言ってたという話をネットかなにかで見たような気がします。
自分も楽できますから、「なかなかうまい逃げ方だな。」と俗っぽい感心をしてしまう。

世界には服装などに気を配ることができないほど困窮する人がいることはわかりますが、日本においては、自分の意思で最低限の身だしなみを整えることができないということはかなり限られるような気がします。

わたしが子供の頃お世話になっていたイタリア人の老神父様。
帰天されてかなり経ちましたが、その神父様は信徒に接するときは必ずといっていいほどローマンカラーを着けてました。
聖職者の威厳を感じるローマンカラーですが、やはり「らしさ」を感じる装いというのは、信徒にとっては安心感と信頼感があります。
もしかしたらご本人の思いとしては、自分の心の弛緩を律するための小さな道具でもあったのかもしれません。

おっさんスタイルの神父を見ると、この老神父様のことを思い出します。

気持ちの壁を取り除いて?自分も楽ができる便利なおっさんスタイルですが、神父の場合はひとつ大きな問題があります。

信徒が(少なくとも私は)告解する気にならない装いだということです。

もし告解を頼んだらどうなるか?

感覚的にですが

「何が悲しゅうて、このおっさんスタイルを前にして、おのれの心の秘密を打ち明けなければならないのか・・・」


という気持ちにどうしてもなってしまう。

「いや告解は秘跡だから、なんぼなんでも着替えてくれるやろ。いやもしかしたらこのおっさんスタイルのままストラだけ首にひょいとひっかけてという可能性もありうる・・・」

とあれこれ想像しながら自問自答して、悲しくもあり可笑しくもあり・・・

いやいや悪いですけど、どうしてもこんなふうに思ってしまう信徒もいるということも頭のスミにおいてほしい。

こういうことを書くと「つまらんことにこだわるヤツ」とご批判のむきもあるでしょう。
自分でも心が狭量とも思ってしまう。

しかし装いは自分の意思で決めるもの。
そしてコミュニケーションの手段でもあります。
心の弛緩が服装にも現れるような気がします。

神父は、やはり人生の師として、威厳を示してほしい。

たかが装い、しかしされど装い・・・

いやいやどうもすみません。