カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2013年08月

先日、朝起きたときの話なのですが、突然「こむら返り」になって、ギョギョギョでした。
(こういうニュアンスの時は「じぇじぇじぇ」じゃない?でしょうね)

足が全く動かないのです。

初めてではないですが焦りました。
自分の意思で自分の身体が動かない感覚・・・

足が石になって固まっていくような恐怖!!
(ちょっと大袈裟ですかね・・・笑)

旧約聖書に「ソドムとゴモラの街が天の火で滅ぼされた時に、振り向いて街を見たロトの妻が、塩の柱になってしまう」という話があります。
石じゃなくて塩の柱ですが・・・

あるいはギリシャ神話の「メデゥーサの話」とか・・・

人が固まって石みたいになる話は多いんじゃないでしょうか?

後でそんなことをチラッと思ってしまいました。


自分の体ですら自分の意思で動かない。

こういう経験をすると、なんでもかんでも自分の意思で動かせているというのは大間違いということに気づかされます。

突然雨が降るのも、突然自転車にぶつかりそうになるのも、偶然といえば偶然・・・

天気予報を見て雨がふるのを知っていたつもりになっても、予想以上の雨で電車まで止まる。途中の駅で足止めをくらう。
「あ〜あついてないなあ。まさかこんな事になるとは・・・」というようなことは山のようにあるわけです。

「運がいい」「運が悪い」「ついてる」「ついてない」というのは、全て自分の意思以外の偶然なんですよね。

そして私ごときの数十年の人生においても、「強烈な偶然」(こむら返りではないですよ)というのはやはり何回かある。

そういう経験は、後で振り返ると「『偶然性』に自分以外の何かの意思が働いていたんじゃないか」とどうしても思ってしまいます。
「やはり神様のシグナルだったのかな?」みたいな感じ・・・

私のプリミティブな信仰の原点ですが・・・

ところで、「こむら返り」というのは、夏場の夜に中高年におきやすいらしく、水分補給が大切みたいですね。




ベネディクション、聖体降福式 または聖体賛美式。

所属小教区教会で与ったこともありますが、その時は、広報、連絡がいきわたらなかったのか、少数だったし何か唐突感があったように記憶してます。

小教区に、もともとベネディクションをする風土がない?
話題にのぼることもほとんどないし・・・

共同宣教司牧で、地域の教会数に司祭が満たない状況。
ミサですら集会祭儀になることが度々ですから、仕方がないのかもしれません。

ただし今年は信仰年なので、6月2日の「キリストの聖体の祭日」にヴァチカンからの呼びかけで、全世界のカトリック教会で、ベネディクションが行われたらしいということを後から知りました。

「もしかしたら、うちの教会でもあったのかも」と今頃気づいてしまった。
しかしミサのすぐ後にあれば絶対わかるはず・・・

もしかしてミサの前にあった???

それともやっぱりなかった???

広報のしかたが悪いのか自分の意識が低いのか・・・

今更悔やんでも仕方がないので、先日、別のところで与りました。

与った回数が多くないので式の流れが頭に入ってないのですが、連祷がありました。

連祷がついては、それだけで充分にブログのネタになりうるのですが、長くなるので今回は「連祷はスゴい!」(気持ちに与える効果として)ということだけ記させていただきます。

やはりベネディクションにはカトリックらしさというか聖体の神秘に対する信仰が、凝縮しているように思います。

逆に、もしかすると・・・ある意味・・・
プロテスタントの人には少し理解しがたい儀式なのかもしれません。

ネットでベネディクションで検索すると、うちの教会だけではなく、他の教会でも減っているような感じがします。

今回与って感動した私は、もっともっと頻繁にあるべきと思いましたが、回数が少ない事情には、日本の教会の意思としてプロテスタントとのエキュメニカルの観点で遠慮する気持ちというか、遠ざけたい気持ちがかあるんじゃないのかと少し気になりました。

考えすぎかな?

しかし与ってよかった!




前回「どん底から這い上がる」ということについて書きましたが、表現として別の表現をするとしたらどんな表現があるのか?


少し探すと松下幸之助翁の言葉で次のような言葉がありました。


「こけたら立ちなはれ。立ったら歩きなはれ」

なかなかいい言葉ですね!

あたりまえのこととしてシンプルに表現されていて、説得力があり印象に残ります。

失敗したときの励ましの言葉であるとともに、チャレンジをうながす感じもある。

やさしさと力強さ厳しさが、いいバランスを保っているような・・・


聖書でも似たような意味の言葉がないか探してみました。


「正しい人は七度倒れても立ち上がる」
(箴言24-16)

これって「七転び八起き」に似てますね。

もしかして語源なのでしょうか?

「服装について」もう少し書き加えようと思っていたのですが、多くの方からコメントをいただいたので、お話するなかでネタがつきてしまいました・・・

ということで、別の話題です。


「どん底から這い上がる」

わたしがドラマや映画を見る時に、好きな主題、テーマのひとつです。
日本人のDNAでしょうか?

NHK大河の「八重の桜」もそうで、私は、もう毎週毎週、涙腺うるうる状態・・・
しかし視聴率的には残念ながらイマイチだそうです。

それでも「八重の桜」はいい。

本当にさりげなくですが、東北の被災地(特に福島)の方たちへの、応援メッセージになっています。
公共放送であるNHKならではのアクションだと思う。
視聴率が低くても、そのことで充分に意味があります。

綾瀬はるかさんのキャスティングはイマイチと思ってましたが、回を重ねるごとに良くなってきた感じがします。

松平容保役の綾野剛さんの出番は、もうなくなるのでしょうか?
できれば松平容保公の洋装姿を見たい気もしますが・・・

その分、山本覚馬役の西島秀俊さんがイイ感じになってきた。
これからの同志社設立に向けての京都編は、ますます見逃せません。

時代の変化に翻弄されても屈辱感を克服し困難を乗り越えようとする姿勢に、私自身も大きく励まされる。
時代が変化するときは、自分も変わらなければならない。しかし自分を見失なってはいけない。

自分自身のいろいろな小さな出来事も重ね合わせてしまうというか・・・
毎回感動しています。

坂本龍一さんの音楽もいいんですよね。


同じく「どん底這い上がり系」テーマを期待して、映画「終戦のエンペラー」も観てまいりました。
こちらは、「日本人のあいまいさ」が強調されしまい、ちょっとイマイチな感じ。
アメリカ人が観ると印象が少しちがうかもしれませんが・・・

以前、NHKで「終戦〜なぜ早く決められなかったのか」という、ドキュメンタリーがあったのですが、私はこの番組で、米内光政、阿南惟幾という人たちの人物評価が一変してしまいました。
まだまだ知らない歴史の事実があります。

この映画では「進駐軍の視点での終戦」ということに興味を持ってたんですが、少し掘り下げが甘かった感じ。
もっと日本政府の戦争指導者に対しての描写がほしかった。
そうでないと、天皇陛下のマッカーサーとの会見でのお言葉の重みがでてこないんですよね。

(以下少しネタバレあり)
そのうえトミー・リー・ジョーンズのマッカーサー像に期待してたのに意外に出番があまりないんです。
副官のフェラーズ准将が主人公でした。ここがそもそも勘違いだった。

ところでこの映画は、恵泉女学園創立者でプロテスタントの河井道さんがモデルとされる「アヤ」という名の女性がヒロインとして登場します。

ほんの一瞬ですが、アヤの部屋に、キリストの御像付きの十字架があり、マリア様の御絵もあったのを私は見逃しませんでした・・・
人物設定がカトリックの女性に変わったということが、以上の描写で確認されました。

それがストーリーのなかで影響があるわけではありませんが・・・

終戦後の焼け跡の情景は印象的でした。

今の日本の出発点ですよね。



服を着る動物はいないので、服を着るのは人間だけなのですが、人間にとって服を着る事は、肉体の防護というか自然環境適応というようなことが機能的な役割として一番目にあることは間違いありません。

ただ当然それだけではない。

自己表現の手段?

どちらかというと、もっと幅広い役割「コミュニケーションの手段」のような気がします。

つまり服装に気を配るということは、なにも「おしゃれになる」「美しく装う」という自己表現だけではなくて、おそらく「警戒感を与えない」というようなプリミティブなことを伝えることも役割としてあるのでしょうね。

原始時代であっても「同じ部族?」であることが装いでわかるというか・・・

つまり「同じような装い」「集団の中で目立たない」こともメッセージ発信なわけです。

おしゃれに自信のない私は、そういうふうに考えて自分を納得させてます。(笑)


とにかく「服装は会話」なんですよね。

さらに「自分の主張を込める」「相手に寄り添う姿勢を示す」「自分の役割を示す」という具合に、服装の役割はもっといろいろあるわけですが、どれもすべて相手があってのこと。

おしゃれでなくてもいいんですが、服装に対して無自覚ではなく「服装(という手段)で会話をしてほしい」ということが、私の言いたいことなんです。

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