カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2013年07月

何故、晴佐久神父に惹かれるのか?

前回の締めくくりで「晴佐久神父は、現代の日本の教会が失ったものを持っていると共に、持ってないものも持っている」と結んだわけですが、それでは「持ってないものを持っている」とは何か?
「晴佐久神父以外が持っていない」というのは言葉が滑りすぎですね。

「晴佐久神父が突出して持っているもの」という書き方がいいかもしれません。

「日本の教会が、現代の言葉でキリスト教を語れていないのかも」ということを書きましたが、これも本質ではなかったような・・・

確かに晴佐久神父は「話題の豊かさ話術の巧みさ」を持っているというのはある。

ただそれだけじゃない・・・
もっと大事な事・・・

やはり晴佐久神父の話には「心の救済がある」「救いがある」ということなんじゃないか・・・

自殺者は、旧社会主義国や日本、韓国が高いそうです。
日本は5位。韓国は1位。

鬱病の人も日本は多い。

鬱病にならないまでも、ストレスに苦しむ人はとても多いですよね。
やはり日本は高ストレス社会です。

この日本における「心を病む人」「苦しむ人」に対して、晴佐久神父はやはりキチンと向き合っている感じがします。

まさに福音を宣言する事で救おうとしている・・・

「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私はあなたたちを休ませよう。」
(マテオ11-28)ですよね。

受洗者が6年間で541人という数字が証明していますし、この数字が「(たとえ受洗しなくても)『救われた』と思う人」の多さを暗示してます。

脱原発とか憲法9条改正反対とか、そういうんじゃなくて、日本の教会が、一番向き合わなければならないのは、多くの苦しむ人の心の救済じゃないのか・・・

脱原発を訴えても憲法9条改正反対しても、心は救済されない。
心苦しむ人にとってそんな話は、ハッキリ言ってノイズです。

「脱原発、憲法9条改正反対は、元気な人が外で勝手にやってくれ!」という感じ・・・

教会では、もっと心を救う話をしてほしい・・・

福音宣教ってそういう事じゃないのか?

第二第三の晴佐久神父が登場してほしい。
変身してほしい。
立ち戻ってほしい。

晴佐久神父の受け売りでいいじゃないか。

そんなことを思っています。



カトリック新聞オンラインによると、
http://www.cathoshin.com/2013/06/27/statistics2012/
日本のカトリック教会は、2012年に1486人の信徒減だったそうです。

信徒数だけでなく、司祭の数(53名減)も、ミサの参加者(2893名減)も、もういやになるくらい「減」「減」「減」・・・

かろうじて増えているのが、「外国語ミサの出席者(+6343名)」「修道女(+2名)」の項目のみ。
ただし修道士は12名減です。

10年前との比較もあって、その中で突出しているのは、「非信徒どうしの結婚式」の81%減という項目。
「結婚式場の豪華チャペルに負けたかな?」(笑)という感じ。

同じく10年前比較で、求道者の数の35%減というのも、とても気になる数字です。

前年比較ですが、クリスマスミサの参加者23万8283人(1万4473人減)という項目も気になる。
総信者数が44万4441人で、23万8283人というのはそもそも少ないと思いますが、さらに前年比で1万4473人減っているというのは、明確な信者離れの指標だと思います。

「1年に1回、せめてクリスマスぐらいは教会に行こうかな」という信徒が減っているんですね。

やはり日本のカトリック教会は混迷している。


これは客観的な事実です。


そういう状況の中で、晴佐久神父は高円寺教会の主任司祭の時に、たった一人で6年間で541人に洗礼を授けたわけですから、その存在は突出してますよね。

晴佐久神父は、なにかが違う。


「受洗者がいない」「若い人がよりつかない」「高齢化している」という教会の現状は「福音を宣言していないから」と晴佐久神父は言っています。

「福音を宣言」とはどういうことか?

わかるようなわからないような・・・

ところで晴佐久神父の本のタイトルですがどれも素晴しいですよね。

「あなたに話したい」「希望はここにある」「恐れるな」「ようこそ天の国へ」「幸いの書」「生きるためのひとこと」


教会を訪ねようと思う人の気持ちに応えるメッセージ発信になっているような気がします。

「星言葉」という本がありますが、この本は「神」という言葉も「聖書」も全くでてこないのですが、信仰を持たない人に対しても、福音のメッセージを伝えようとされているのがわかる感じ。

現代社会の市井の人々に対して語りかけているんですよね。

どうも今の日本の教会は、社会問題にかかわることが、現代社会における宣教であるかのごとく短絡的にむすびつけているきらいがありますが、そもそも「現代社会に生きる人々に対して、現代の言葉でキリスト教を語りかけられていないんじゃないか」と思ったり・・・

というか、現代社会、現代人に対する見方が一面的なのかな?

とにかく晴佐久神父のように、心に響いてこないというか・・・

日本の教会の全てを知ってるわけではないですが(笑)

社会問題にかかわらなくてもいいという意味じゃないですよ。
「現代社会に福音を活かす」ということは「社会問題にかかわる」ということだけではない、イコールではないという意味です。

私もまだまだ晴佐久神父を充分につかみきれてません。

本を読むと、とても感動させられる言葉に出合う反面、共感できないと思う箇所も決して全く無いわけではない。

それでも目が離せない。引き寄せられる・・・

やはり、晴佐久神父は、現代の日本の教会が失ったものを持っていると共に、持ってないものも持っているんです。

自問自答しながら、何かが少し見えてきたような・・・(つづく)

まだマイブームというか、晴佐久フィーバー!!(すいません)は続いていて、まだまだ書きたいのですが、ちょっとブログ記事がまとまらない感じ。。。

講演URLの「俗は聖の器」も大変刺激的な話なのですが、実はまだ全部見終わっていないのです。

「『俗』とは何か?」というのは、大変面白いテーマなのですが、これはかなり難しい・・・

感想を書いては消し書いては消しが続いてしまって記事アップが遅くなってしまったので、あきらめて別の話題です。

所用があって東京に行きましたので「ちょっとロザリオ一環」と思って四谷のイグナチオ教会に立ち寄りましたのでその話。

イグナチオ教会は、関西への帰り道で「東京駅へのアクセスがいい」し「駅近」だし「キレイ」なのもいいんですよね。

大聖堂の祭壇への下がり傾斜は、やはり気になりますが、天井から降り注ぐ光は美しく癒されるものがあります。
以前「教会建築としては疑問だ!」とブログ記事で書いた事はあったのですが、やはりイイところを見ないといけない・・・
祈りに集中するうえで、やはり空間は大切ですね。

イグナチオ教会




















今回は、初めてザビエル聖堂(小聖堂 下の画像)にもおじゃましました。
前から写真を見て気になっていたんですよね・・・
こちらは、とても緊張感がある空間。

seidou3









撮影許可を得てないので、この画像は私が撮影した画像では
ありません。
この写真は照明がついていてちょっと明るいでしょ。

しかし私が行ったときは、お祈りをされている方がいましたが
電気をつけておられませんでした。

かなり暗かったのですが、実はその暗さが良かった。

茶室のような佇まい・・・洞窟のような感じも・・・

暗いので聖体ランプに自然に目がいきます。
話しかけたくなるような・・・

洗礼盤から水が湧き出ていて、その音が極僅かに聴こえてくるのが心を鎮めさせますね。

チョッと不謹慎にも、いい温泉の掛け流しみたいなものも連想してしまいましたが・・・

「和風の聖堂は『典型』がまだ創れていない」ということも以前ブログで書きましたが、この聖堂は、『日本の聖堂の典型』になりうるんじゃないかと思わせる凄味がありました。

「茶室」「洞窟」というのは、キリシタン時代の祈りの場のメタファーなのかもしれませんね。

この聖堂の緊張感はスゴいです。

ザビエル聖堂は、今回初めてだったので空間に圧倒されてしまいました。
刺激が強すぎたのか大聖堂のようにはお祈りに集中できなかった。

しかし、とても気に入りました。

また行きたいと思います。

教会に全く行かなくなった時期があった私ですが、その復帰について、以前、拙ブログにおいて「バンドミサで離れトリエントミサで立ち帰る」という記事を書いた事がありました。

「バンドミサに嫌気がさして教会に行かなくなっていた私が、トリエント・ミサの動画を Youtube で見て・・・」という内容だったわけですが、もしかして私はネットの動画に何かご縁があるのでしょうか?

コメント欄でMIKEさんに教えていただいたURLで、またまた驚いてしまいました。
http://ricc.holyring.jp/?proc=japaneseslash2011sslash20110726

まだご覧になっていない方もおられると思いますが、どうぞぜひご覧になってください!

このURLは、晴佐久神父の講演会の動画サイトなのです。

実は最初の5分で、晴佐久神父とはどういう人なのか、その一端がわかるような場面に遭遇します。

長いので、私もまだ全部を見れていませんが、この最初の5分が大変インパクトがあるんです!
(何か映画の宣伝みたいですね(笑))

もったいぶらずに書きましょう。

この動画は晴佐久神父が、説明用のホワイトボードの上の方にマーカーで十字架を描くところから始まるんですよね。

ローマンカラーつけてますね。好印象。
私はこういうところをチェックするイヤな奴です。(笑)

「ここは、上智大学の施設になるんですか? ああ梅田キャンパス。カトリックの施設なんだから部屋に十字架ぐらいないとね。(会場爆笑)これは誰に言ったらいいんでしょうね(笑)」と話始める。

「人間が話すことの評価(出来不出来)は意味がなく、聖なるものが話に宿るかどうか。十字架に深く頭を下げ始めたいと思います。うん?これじゃちょっとかな?」というようなこと言って、ホワイトボードの十字架をキレイに丁寧に書き直し始める。

太くしっかり、十字架の端のほうに角ができるくらい太く・・・

そして最敬礼。この最敬礼が実に長い・・・

いきなり会場の十字架の有無の話をしたときは半分冗談という感じでしたが、この長〜い最敬礼で、会場の空気が一気に引き締まります。

この「ホワイトボードの十字架」・・・
会場係の人が、後で消すときに、何か躊躇してしまうんじゃないかと気になってしまう感じ・・・

やはり「十字架に人生をかけた気迫」という感じが激しく伝わってくる場面でした。

晴佐久神父という人はこういう人なんですね。
実にインパクトのある出合い方をしてしまいました。

こうゆう所作について、そんなに気に留めない人も多いと思いますが、心を込めた姿勢、所作というのは、私の場合、グッとくるというか琴線にふれるんですよね。

もう晴佐久神父に捕まってしまったというか・・・いや捕まえたかな?

いまはもう、ご紹介いただいたMIKEさんにもう感謝です・・・

Amazon で買った説教集も届き、どんどん読み始めています。

もちろん、お話も中身もグッと来る。胸を打つ。感動する。笑える(笑)

晴佐久神父は、必ずお話のなかに笑いのツボをおりまぜますが、実はこれは大変大事な事なんじゃないかと思います。

もう「弟子にしてください!」という感じで、多摩教会に転籍したくなってきましたが、関西に住んで多摩教会所属というのはちょっとマズいですね。

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