カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2013年06月


晴佐久神父の説教集にはまってしまいました。

説教集といっても、また Twitter ですが、Twitter の「晴佐久神父bot」(発言を集めたツイート)を読んでいるうちに、グイグイ引き込まれて本を買いたくなってきた。

以前ちらっと、断片的にお説教を読んだことはあったのですが、その時は「ありのままでいい」とか「変わらなくていい」というメッセージに対し、正直なところ「少し甘すぎるんじゃないか?」と思ったんですよね。

しかし・・・

「苦しんでる人も多いんだろうなって思うと、胸がギュッといたしましたけれど、精いっぱい福音を語りましたよ。」


「イエスはどう愛したか。言うまでもないことですね。イエスは、十字架で私たちを愛しました。その十字架こそは、『本当にあなたとつながりたい』『あなたの苦しみとつながっていたい』っていう、そんな気持ちの、非常に美しい目に見えるしるしだった。」


「大勢の受洗者が、ここで涙を流しましたが、私も涙を流しました。『もうだいじょうぶだ。恐れるな。主は復活された。あなたも復活した』。私はそう宣言いたしますし、その喜びを、生涯忘れないでいただきたいと、心からそう願います。」


「私たちは今日もここで、神の宴に与って、心行くまで喜べる。こんなにも清くなく、正しくなく、立派でない私が、この宴に招かれて、神に結ばれて、『ああ、もうだいじょうぶ。ここがあればだいじょうぶ』という、それがこのミサの喜びです。」


「第266代の教皇の下で、二千年続いているミサを、私たちは捧げております。洗礼を受けるっていうことは、そのような大群衆、白い衣を着てなつめやしを 持っている天上の大群衆の端くれに加わったっていうことですし、救いの喜びをもって、聖なる巡礼の旅を続けていこうじゃないですか。」


「義とされる」っていうのは、神様と私たちが、本当にちゃんとした、あるべき正しい関係に入ることです。イエスのたとえでいうなら、神は親で、私たちは子 どもなんだから、親子がきちんと親子の関係になることを、『義とされる』っていいます。・・・親子がちゃんと親子になること。


「悪魔はいつでも身近なものを見つめさせる。そうして『これがすごい善だぞ。さあ、これを握れ』って言うわけです。つまり、悪って、手前だけ見つめることな んです。もっと永遠なるもの、完全なるものを、その向こうに見ているのが、われわれキリスト者。二千年、二万年の計で、目先のことに迷わされない」


ついつい引用が長くなりました。

晴佐久神父は、「やさしさ」「ゆるし」「家族」というような事をテーマにして徹底的に「神の愛」を説かれるんですよね。

やはりわかりやすいし、言葉が活き活きしているというか、エモーショナルというか、素直に感動してしまいます。

「こんなに活き活きとした説教が聞けるなんて多摩教会の人はうらやましいなあ」とつい思ってしまう。

ネットサーフィンをしたら、ブログで「晴佐久神父は福音を解説するのではなく『宣言』している」と書いてる人もいました。

福音解説であっても、ドキドキしてくるような素晴しい説教はあるのですが、聴く側の信徒の理解度によっては、響かない人がでてくる場合があるわけで、晴佐久神父の説教は万人の心に響く説教として突出していると思います。

晴佐久神父の赴任される教会は、1年で80人とか100人とかの洗礼者がでているんですよね。

まさにカリスマ神父だと思います。


黒地に白と黄色の文字で

「死後さばきにあう」

と書かれている看板を、何回か見たことがあるという方は多いと思います。

都会よりも地方で見る感じ・・・
ボンカレーや消費者金融の看板なんかといっしょに貼られている看板。

Google画像検索で「死後さばきにあう」と入力いただくと「ああ、これか」とわかってもらえると思います。

誰が貼っているのだろうと気になっていましたが、Wikipeを見たら、聖書配布協力会という宮城県にあるキリスト教の団体のようでした。

会のホームページを見ると、「1950年ごろ来日したアメリカ人と日本人とで始める」という曖昧な記述・・・

「教派が何か?」知りたいですがよくわからないですね。

「資金援助は一切求めず、募金活動も行っていません」というところはクリーンで偉い。

しかし、唐突に見せられる側にしてみれば、「死後さばきにあう」というキツい内容の看板は、やはりドキッとしますね。

「恐怖心を煽り高圧的で逆効果」


というキリスト教関係者の声もあるそうで、もっともなような気がします。

街宣もやるんですよね。「罪の悔い改め」「地獄」の話が軸になります。

ネットサーフィンをすると、女子パウロ会のシスターのブログが見つかって「年末の困った宣教」というタイトルで、聖書配布協力会の街宣活動のことがアップされてました。
「聖書のメッセージって、罪とか悔い改めとか、地獄とかそういう、人の気持ちを暗くするようなことなのでしょうか?同じ聖書を信じる者、キリストを信じる者ですが、『あの人たちとは関係ありません』と、避けて通りたくなります。」
と書いてある。

「何もそこまで言わんでも・・・」と少し
聖書配布協力会を気の毒に思ったり、「いやいや確かにそうだよなあ」と思ったり・・・

Wikipeには、「看板の存在が作物泥棒の防止になったなどとの好意的な意見も多々あり看板の存在がその地域のモラル向上において一定の効果があることから、一概に非難することはできない。」とも書いてありました・・・

「ほんとかなあ」と思いつつ、そういう見方があるというのは新鮮ではあります。

ネットを見る限りでは、好奇心からのウオッチャーはいても、えてして否定的な意見が、やはり多いですね。

福音宣教になっていないような気も・・・
これでは意味がないような・・・

確かに、キリスト教の信者ではない場合は、脅迫のように感じるかもしれません。


しかし・・・

もし仮にカトリック教会の敷地内に貼られていたらどうか・・・

キリストと出会った信徒の立場に立てば、この「死後さばきにあう」という看板は、実は、ハッとさせられるところもないわけではありません。
私の場合は子供の頃、公教要理で「私審判」として習いました。

もしこの死後さばきにあう(聖書配布協力会看板)」が、教会掲示板のど真ん中に、ドカンと打ちつけられてあったら・・・

昨今では、教会の掲示板も、政治活動の案内が貼られたりして俗っぽいからかなり刺激的ですよね。

「ピュアでスリリングな感じがするだろうなあ」なんてアホなことを思ってしまうのでした・・・・・

この
死後さばきにあう」というのは、バルバロ聖書では、「人間は一度だけ死んで、その後審判を受けると定められている」ヘブライ人への手紙 9-27)となってますね。

6月8日の「人は生きてきたように死んでいく」のブログ記事、柏木哲夫先生の「せつない看取り」の話をまた思い出し、「弁護人の姿が見えない苦しみということで、私審判は死の直前から始まるのかもしれない」などと思ってしまいました。

「バザーをどうするか?」

教会の行事運営でよく議論が紛糾する話題の一つですが、この話が紛糾する理由は、やはり行事として負担が大きいという事情によります。

やればやったで盛り上がる。収益もあがる。様々な募金のための資金となる。
しかし負担が大きい。

有意義なのは間違いないのですが、やはり教会というところは、高齢化コミュニティなので年々推進力が落ちるのは致し方ないところです。

「従来と同じやり方では難しいんじゃないか?」

そんなことも思います。

ご近所のプロテスタントの別の教会では、フリマ形式を導入しているところもあるようです。

物品などの販売主体者を、個人やグループに委ね、場所代をいただく。
手間をかけずに盛り上がるうまいやり方だと思います。

反面、個人の収益を認めるわけですから、主旨からしだいに離れる危惧も感じます。
聖書(マルコ11-15)のことも気になる。

繊細なコントロールが必要かもしれません。

今後のバザーの継続にむけてフリマ方式を導入するか否か?

悩ましい感じ・・・

バザーに限らず、教会のお金の話はナーバスで難しいですね。
 


少し前に「サヨクらしくない人」というタイトルで、共産党の志位和夫さんのTwitterを紹介しました。

「意外性があって面白い、志位さんという人は、共産党ながらチャーミングな人だ」
というような内容でしたが、その後「もしかしたら保守層に対する撒き餌的なツイートだったのかな。」と思い始めました。

支持層ではない人に「おや!」「あれ!」と思わせて気持ちを掴む。なかなか巧みです。

政治家として、人の気持ちを掴むのがうまい人だということがよくわかりました。

私も無防備すぎたと反省してますが、したたかですよね。

ただ、日本のカトリック教会に対する、政治勢力の影響に危惧を覚える状況を認識した今、共産党に対し、非常に警戒心が起きています。

社民党などに比べ、一枚上手。

私の前記事「サヨクらしくない人」はタワゴトとしてお読飛ばしください。

私の心境の変化は「サヨクらしくない人」のコメントの意見交換の内容でご理解いただけたらと思います。


教会教導権についてちょっと混乱しています。

混乱の発端は、東京の一部の教会で配られたという、例の「憲法改悪反対のパンフレット」です。

今回はこの内容の是非ではなく、通知のされかたについて書きたいと思います。

このパンフは司教協議会・社会司教委員会の制作らしい。

私は直接見たわけではありませんが、「わたしたちは憲法改悪に反対します」とあったようです。

「わたしたち」複数形ですし「司教協議会」作成ということでしたら、やはり司教団の意見表明の意味を持つということになると思います。

Twitter で教えていただいたことなのですが、「司教団メッセージ」「通常の教導権の行使」ということになるそうです。中央協議会にメールで問い合わせた方がおられてそういう回答があったそうです。

このパンフが、「司教団メッセージ」ということならばつまり「通常の教導権が行使」された。ということになります。


ただこのパンフは各教会から社会司教委員会に注文をするものらしい。

中央協議会のHPには何も記載がないし、私の所属教会では通達文の掲示や説教での説明などが全くないから私にとっては Twitter を見なかったら全く知らない情報ということになります。

東京の一部の教会だけ「パンフによる司教団メッセージによって教導権が行使された」という理解は変ですし、上意下達が、下から注文のかたちになるのは不自然です。

もしかしたら、公式の司教団メッセージが出る前に注文され、先走って配布されたのか?
それなら手違いで、順番が逆だったということで、かろうじて理解できます。
望ましいことではないですが、話がややこしくなるのでその是非は今回はふれません。

カテキズムを読むと「教導権の行使」「カテケージスや説教において行使される」と書いてあります

「通常の教導権の行使」たる司教団メッセージ「憲法の改悪反対について」が、そのうち所属教区所属教会を通じて通達されるということになるのが、通知の姿としては、正しい姿だと思います。

従順を持って受け止めなければなりませんから「教導権の行使」というのは信徒にとって重い。
加えて、極めてセンシティブな内容ですし、正しい通知のされかたがされることを望みたいと思います。

そうでなければ、一般信徒は本当に混乱します。


ただし
・・・

少し疑問に思うのが、本当にこのパンフの内容が、本当に上意下達の司教団メッセージとして「教導権の行使」として近いうちになされるのか?という点です。

あまりにも政治的でセンシティブな内容だからです。

教会法はあまり良く知らないのですが、こういう条文があります。

「信徒は、地上の国の事柄に関してすべての国民が有している自由が自己にも認められる権利を有する。ただし、この自由を行使するとき、自己の行為に福音の精神がみなぎるように留意し、かつ教会の教導権の提示する教えを念頭におくべきである」(教会法第227条)

もう少し教会法を確かめたい感じがしてきます。

まさか「正式の通達の姿をとるのはいろいろ支障があるから、ビラかパンフで配布しようか・・・」
なんていうことは・・・・・まさか無いですよね。

もしそんなアバウトな感じだったら、とてもやりきれません。

私は、司教様の教導権に対する従順と、憲法改正の是非における私見の整合で、本当に真剣に悩んでいるんですから・・・

「司教団メッセージというのは、いったいどういう書類を指すのだろうか?」

「どれが司教団メッセージで、どれが違うのだろうか?」

「通常の教導権が行使」なのだとしたら、「司教団メッセージ」は、信徒にとってはとてもとても重いものなのです。

教導権の行使が教会法にそって正しくなされ、正しい姿で通知されることを望みます。



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