カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2013年05月

橋下市長と元慰安婦の方との対話が中止されました。

私は橋下さんが、誤解されたまま(というか意図的に発言の一部を抽出され)脊髄反射的な非難をされているのが残念でなりません。

橋下さんが「当時としては慰安婦は必要だった」という発言は、暴行脅迫や拉致による強制がなかった(政府見解)ことを前提にした発言。「状況の認識」で「存在の肯定」ではない。そして「本人の意に反した事実」があったならば、謝罪や配慮が必要と述べています。

発言全体の文脈がとりあげられないのは不公平です。

橋下さんを擁護するため、私も意図的に発言の一部を抽出したいと思います。

橋下さんは語尾に「ね」「けど」をつけるクセがあるので、より好感度を高めるために「ね」「けど」も削除します。耳障りな語尾も目立つところは削除します。

以下橋下発言です。

「事実としては言うべき事はいっていかなくちゃいけないと思っていますから。僕は、従軍慰安婦問題だって、慰安婦の方に対しては優しい言葉をしっかりかけなきゃいけないし、優しい気持ちで接しなければいけない。意に反してそういう職業に就いたということであれば、そのことについては配慮しなければいけません」

「ただ意に反して慰安婦になってしまった方は、それは戦争の悲劇の結果でもあるわけで、戦争についての責任は、我が日本国にもあるわけですから。そのことに関しては、心情をしっかりと理解して、優しく配慮していくことが必要だと思います。しかし、違うことは違うって言わなきゃいけません。」

「世界全体で見て、侵略と植民政策というものが非難されて、アジアの諸国のみなさんに多大な苦痛と損害を与えて、お詫びと反省をしなければいけない。その事実はしっかりと受け止めなけれないけないと思います。」

「意に反して慰安婦になった方に対しては、配慮しなければいけないと思います。認めるところは認めて、謝るところは謝って、負けた以上は潔くしないと。」

「当時植民地政策っていうものがあった。あったんだけれども、日本は戦争して負けてしまった。その中で損害と苦痛を与えてしまったことについてどう評価するのかとういうことは、真摯に考えなきゃいけないし、反省するところは反省しなければいけないと思います。 」

「だから、それは女性が、意に反してそういうところで働かなきゃいけないとか、そういうところは考えなきゃいけないし、そうさせないように。それが戦争の 悲劇の結果であれば、それは戦争責任の一環として、そういう女性達に対して配慮していかなければいけない。ただ、そういう仕事があったと いうのは事実です。そこまでは否定できません。」

「暴行脅迫うけたのか、拉致されたのかね、そのあたりについても、お話うかがわせてもらえるんだったら、うかがわせてもらいたいです。」
 

「本当にそうだってことであるんだったら、日本政府の方にその証言とってもらってですね、なんだ拉致あるじゃないですかと、2007年の閣議決定の時 と違うじゃないですかっていう話になってもこれは仕方ないと思います。今は、いろんな論戦の中で、従軍慰安婦問題を否定している人たちって言うのは、 暴行脅迫や拉致は絶対になかったって言っているわけですから、それはあるって話になれば、それは従軍慰安婦問題を真っ向から否定している人たちは論拠がなくなるわけです。どういう状況で、どういう経緯で慰安婦にならざるをえなかったのか、そういうお話をうかがわせてもらえるんであればお聞かせいただきたいという風に思ってます」


あえて「プラス方向の印象操作」をしましたが、マスコミがしていることは、この真逆の「糾弾するための印象操作」じゃないのか?

私が、マスコミに対して卑怯だと思うのはこういうところで、橋下さんに対する人権感覚を疑います。

「マスコミは第四の権力」
と言われることがありますが、本当にその通りだと思う。

このマスコミの印象操作に乗っかって「サヨク」が騒ぐ。

おきまりのパターンに嫌悪感を感じます。

橋下さんは現実主義者で、願望を含めない現実を直視した発言をするから誤解されやすい。
今回も品格に欠ける発言になってしまいましたが、しかし人権感覚は弁護士だけに極めてまともだし、「極右」でもない。
弱者を装う人には厳しいですが、本当の弱者には寄り添う姿勢を持っていると思う。

「サヨク」が橋下さんを執拗に攻撃するのは、「自分たちのアイデンティティを脅かす現実主義者としての存在として警戒しているのではないか?」という話を、先日 Twitter で教えてもらいました。
「サヨク」は妄想の世界に生きていますから・・・

特に朝日は「週刊朝日問題の報復」のような怨念を感じてしまう。

「一方的な非難」「脊髄反射的否定
に対しては、その逆の意見も聞いて、客観性をもって自分の頭で判断しなきゃいけない。

そんなことを思いました。

Twitter を見ていたら、ハンマーで殴られるような強烈なインパクトのある聖句に出会った。

「人間は蛆虫 人の子は虫けらにすぎない。」(ヨブ記25:6)


ヒューマニズムを全否定するようなこの言葉。

聖書の言葉なのでブログのタイトルとして書いたが、キーボードを打つとき、入力をちょっと躊躇するような激しい言葉である。

ただしこの「蛆虫」「虫けら」という言葉は、軽蔑し忌避するものの比喩ではなく、おそらく「全能の神の前では、人間ごときは、弱く小さい虫けらのようなもの」という、神に対する人間の存在の小ささを表現する言葉。

そしてまた「人間」「人の子」と言う言葉も、キリストが人々のために犠牲になったことを考えれば、あくまで身近に接する人「隣人」に向けた言葉ではなく、言葉どおり「人間」という存在全体に向けられた言葉なのだろう。

しかしドキッとする言葉は、緊張感があってやはり刺激になる。


※記事修正のおしらせ あまりにも異なる内容を、同じ日の本文のなかに続けて書いてしまいました。読みづらかったので、やはり二つに分けました。以下は新しい本文です。 5月20日)

橋下市長が失言で窮地に陥っています。

問題となった発言の一言一句を確認してみました。
(橋下徹氏ぶらさがり取材全文文字起こし)http://synodos.jp/politics/3894

橋下さんの発言は「事実の認識」であって「存在の肯定」ではない感じ。

橋下さんを非難する人の多くは、発言の一部を切り取って非難しています。

橋下さんが、一番言いたいのは「日本だけを非難するのはアンフェア」ということ。

「意に反して慰安婦になった事実があったならば、配慮が必要」という発言もあるのに、こちらはあまり表にでてこない。

西村眞悟氏の発言とは質が違う。

鬼の首をとったように橋下非難をする人らは、橋下さんがキライだからなのであって、本当は失言の有無などは関係ないのでしょう。

私は、とても卑怯だと感じています。

死んでるような言葉しか言えない多くの政治家と違って、活き活きとした言葉で本音で語っているから叩かれる。

私は断固として橋下さん支持。

ロザリオ














右は、祖母の形見分けでもらったもの。
雰囲気が数珠のようで「コンタツ」と呼びたくなる感じ・・・

左はイタリア製。 四谷のドンボスコで1000円ぐらいでした。

せっかく二つあるので、それぞれお祈りを変えています。

「コンタツ」のほうは、主祷文(天にまします)、天使祝詞(めでたし)用。

イタリア製のほうは、ラテン語 Pater Noster   Ave Maria 用。

時間がないときは一連だけでもいいということを知ってから、少し気軽に始めやすくなりました。
しかし不思議なことに、祈り始めると結局、一環になることが多い感じ。

一連と一環という区切りが、絶妙のボリューム感ですね。

なかなか毎日祈ることができないですが、連続して唱えるのが心地良いと感じるときがあります。



街では、アクセサリーとしてロザリオを身につけている人も、ときどき見かけます。

「ロザリオ アクセサリー」でググると、いろいろなアクセサリーロザリオがでてきて興味深いです。
「フランス教会正規品」というサイトもありました。

正規品というのは「正規のカトリックの数珠」ということなんでしょうね。

ロザリオをアクセサリーとして首にかける人は、純粋にアクセサリーとしてなのか? 少し「お守り」的な気持ちもあるのか? 

はたしてどちらなのか聞いてみたくなる感じがしますが・・・

ただしアクセサリー用ロザリオ(ロザリオとしては不正規品?)は、首にかけたときの後ろの部分の珠が省略されていたりするようです。

装着したときの感じを良くするためでしょうか?

ロザリオの祈りが一環にならず中途半端ではあります。

首にかけている人を教会でみかけたことはありません。

カトリック的には、アクセサリー用ロザリオというのは、やはり違和感がありますね。

「信仰について」を読み返して、あらためて強く印象に残った部分・・・

前回の繰返しになりますが

「教会が、礼拝の荘重さと荘厳さをもって神の美、信仰の喜び、闇と誤謬に対する心理と光の勝利を表すのは断じて自信過剰ではない。典礼の豊かさは、 ある種の聖職者の富ではなく、万人の富であり、貧しき人々の富であり、彼らはそれを熱望こそすれ、少しもそれにつまづいてはいない」

という箇所。

ちょっと縮めて(縮めていいのかな?)

「荘厳な典礼は万人の富、貧しき人々の富」
ということなのですが、とても大切なメッセージだと思いました。

「意味がわからないのにありがたがるのは変だ」ということで、日本の多くのカトリック教会がラテン語やグレゴリアンを止めてしまったわけですが、ほんとに良かったのだろうか?

やはり「美の追放」のように思えてなりません。

もちろん各国語の訳文で、その意味を補足する必要はあると思いますが、追放はいけない。

ラテン語そのものが「『神の美』を讃え『信仰の喜び』を表し『神の聖性』を表現する」ためのひとつの手段のようにさえ、私は思えてきました。

私の場合は、まさに「ラテン語をありがたがっている」と思います。

「ありがたい」
と思う感性・・・

文字を読めない中世の農奴が大聖堂のステンドグラスを仰ぎ見る。

そんな感じ。

未熟で暗愚な信仰なのかもしれませんが・・・

そもそも「意味がわからないのにありがたがる」というのは本当に変なのだろうか・・・

↑このページのトップヘ