カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2013年04月

有事に対する危機感が不足している。「平和ボケ」ではないか?ということを先般書いたわけですが、いろんな事象で「平和ボケ」を感じてなりません。

断片的な記述になりますが・・・

例えば「正平協」のホームページに「オスプレイ反対」「自衛隊海外派兵反対」「沖縄基地問題」などの文字を見た時に感じる違和感・・・

オスプレイには反対しても「劣化ウラン弾の非人道性」について触れないこのバランスの悪さ・・・

問題認識がずれているように思えてならない。

戦争が罪であるということに異論はないのですが、宗教者の立場で訴えるならば「人道性」の視点で訴えるべきではないのか。

もっとも「戦争を罪」としながらも「自衛のための戦力」を必要としなければならないことは、矛盾なのですがその矛盾を抱え込みながらも、それでもやはり人道性、倫理の問題はある。
そこに宗教者の役割がある感じがします。

私も自信がないのですがそんなことを思いました。


カトリックの視点を離れますが
国会議員の靖国神社参拝についても微妙な感じを受けます。
「みんなで靖国参拝する国会議員の会」という会があるでしょう。
デリカシーがないというか・・・
個人の意思での静かな参拝ではイカンのか?
強制するようで不快です。
「戦争で亡くなった方の慰霊」については全く異論がない。大切な事だと思います。
しかし「大東亜戦争における反省」も極めて重要。

多くの命を失い亡国の危機を招いた戦争に対する反省が欠落しては駄目です。
やはり「大東亜戦争における反省」の気持ちを失うことも平和ボケです。

靖国神社は宗教法人ですから口は挟めませんが「なぜA級戦犯を合祀したのか?」ということについては疑問を感じます。

逆説的ですが、慰霊と共に戦争への反省をふまえた場所となるためには国家護持のほうがいいのではないか?と思うことも・・・


難しくて正直なところ、自信がもてないのですが・・・

モヤモヤした気持ちが残りますが、このモヤモヤの気持ちの中に、おそらく「戦争への反省」「戦争は罪」という感覚が含まれているからなのでしょう・・・

憲法改正についてもそう。
平和、人権、自由、平等 などなど日本国憲法の精神でいいところはいっぱいある。
改憲が現実味をおびてきているなかで、どこを守らなければならないかはとても大切。
一言一句修正させない護憲では駄目。
日本国憲法の精神の護憲でないと・・・

ハッキリ言って、社民党みたいなサヨクはもう駄目。

もっと骨太というか、現実的で建設的なサヨク??も必要と思ったり・・・

今回はちょっとメチャクチャな内容になってしまいました・・・


以前 拙ブログで「故郷の味は体が覚えている(2012年9月29日)」というダサい記事を書いたことがありました。

「外国に移り住んで永い間日本に帰国していない人に味噌汁を飲ませたら泣き出した」という話。
「味噌汁の味は望郷の味」ということなのですが、「五感で感じた事を体が覚えている」ということを、やはり自分の体験でも実感する事があります。

先日与ったトリエント・ミサでは、カトリック聖歌集541の Ave Maria を唱ったのですが、この聖歌はわたしにとって、かなり感覚を刺激する感じ・・・

この Ave Maria は、東京カテドラルの荘厳司教ミサでもよく唱われますね。
荘厳司教ミサ初体験のとき、このメロディーを聴いたとたんに、ゾクゾクっとして感動のあまり卒倒!しそうになりました(笑)
あのカテドラルで1000人に近い参列者が唱う迫力というのは、確かにあるのですが、あの時は本当に久しぶりに聴いて望郷の思いような思いがこみあげてきたんですよね。
もう涙目です。。。

Salve Regina もいいですよね。
Ave Maria にくらべ明るい感じですが、どことなく寂しさがただようような感じもします。
以前、修道会のお葬式(告別式)の一番最後で、棺に蓋をする際、仲間のブラザー達が Salve Regina を唱っておられて、そのときの印象が強烈に残ったからかもしれません。 

このAve MariaSalve Regina も定番のグレゴリアンですが、残念ながら私の所属教会ではカトリック聖歌集が置いてない事もあって、自分の教会では唱ったことがない。
典礼聖歌集とカトリック聖歌集をちゃんと両方置いている教会では、時折、唱う機会もあるでしょうから、教会によってもこれはかなり温度差があります。

所属教会でも、祝日のミサでは聖歌隊がポリフォニーのラテン語聖歌を唱いますが(それはそれで悪くはないのだけれども)「カトリック聖歌集」の聖歌ではない。

今の所属教会では、どうしても飢餓感が湧いてしまう・・・

上述の「望郷の味噌汁の味」は、私のカトリックライフにとっては「カトリック聖歌集」なのでありました。

昨日、京都で特別形式ミサ(トリエントミサ)があり、久しぶりに与ることができました。

神様のお恵みに感謝!
そして王たるキリスト宣教会の植田神父様モロー神父様、主催のウナ・ボーチェの皆さん、会場を提供いただいた小教区教会に感謝です!

個人ブログでの事前告知は、なるだけ控えるほうが望ましいという意向もあって、拙ブログでの事前案内は、控えておりました。

主催のウナ・ボーチェの公式ホームページ http://uvj.jp/category/mass/ では、事前告知されていますので、ご関心をお持ちの方は、今後の予定はどうぞそちらをご覧頂きますようお願いします。

もともとウナ・ボーチェのメンバーは、東京在住の方がほとんどなので、関西でミサを上げていただけることは、大変ありがたい。

主催者だけでなく東京のミサでお会いしていた方達も、京都まで来てくれました。
再会を嬉しく思うと共に、ミサに与ることで関西での動きを支えてくださっているようにも感じ、大変ありがたいと思いました。

準備等で、ほんの少しお手伝いしましたが、関西の信徒どうしの新しい出合いもあり、情報交換をするなかで今後の伝統形式のミサ(トリエント・ミサに限らずノブスオルドの天使ミサも含めて)の復興に希望が持ててきたような感じ。

そして家族のこと、与ることができなかった友人のことを思い祈りました。

トリエント・ミサそのものでの新たな気づきや感動、今後の自分のブログの方向性ということでも、いろいろ思うことがありますが、先ずは旬なタイミングで、感謝の気持ちお礼を述べさせていただくとともに、カトリックの伝統復興に関心を寄せてくださる拙ブログの読者の皆様へもお知らせしたく、記事更新させていただきました。。。

日本国憲法の前文には「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という理想がうたわれているのですが、最近の国際政治の中で、私たちの日本は、その理想とは程遠い地域であることを痛感させられます。

ミサイル発射を予告するとても平和を愛する諸国とはいえないあの国。

「本当に発射するのではないか?」という思いが頭をよぎります。

「平和憲法があるのだから大丈夫」と思う人はさすがに少なくなってきましたが、私みたいに「日米安保があるのだから大丈夫」と思う人はまだまだ多いかも。

しかし・・・

米軍基地が直接攻撃されない場合は、はたして即座に反撃するだろうか?
日本がアメリカに感謝する最大のタイミングを待って恩を売るように反撃したりして・・・

日米安保は安全保障の要だし、アメリカの反撃を疑うわけではありませんが、昨今の状況は「日米安保に頼りすぎる考え方」も「平和ボケ」ではないかと思わせる緊張感があります。

戦争抑止のための日本独自の防衛力、例えば「ミサイル発射を予期した時点で発射基地を叩く」というような能力について少なくとも議論はする必要はあるかもしれない。
いや、議論が必要という考えがもうすでに「平和ボケ」なのかも・・・

お隣、韓国の緊張感は日本の比ではないといいます。
核武装論や、驚く事に(反日感情を考えればという意味で)日本との同盟強化論まででているらしい・・・
隣国政権が今のクレージーな状態よりは、中国の傀儡政権に変わる方がまだましという考え方も強まっているそうです。

中国も、あの国は「緩衝地帯」という考えがあったからこそ、庇護者のような立場をとってきたわけですが、韓国が中国にグッと傾いていくと、もうどうなるかわかりません。

韓国が安全保障を中国にゆだねる「中韓同盟」がバーチャルではなくなってきた状況・・・

パワーバランスが崩れかねない危険な状況だという事を痛感します。

実はこんな状況になっても、まだピンとこない感じも正直あるのですが、世界の中でも、かなり緊迫度の高い危険な地域で私たちは今、生きているんですよね。

もうイースターから一週間が過ぎてしまいました。
遅くなりましたが、主の御復活おめでとうございます。

お花見のベストシーズンなのに、この土日も天気が悪いですが復活祭の日曜日も寒かったですね・・・
桜はいい感じに咲いていたのですが、寒くてお花見をする気にもなれず、ミサが終わったらそそくさと帰宅してしまいました。

「たまには家でビデオでも見ようか」ということで、久しぶりに自宅で、家族みんなで映画鑑賞。
劇場映画版アニメ「フランダースの犬 Dog of Flanders」のDVDを見ました。

基本的にストーリーがいいので、充分に感動出来る映画になっています。
アニメであったり子供向けであったりする部分は相殺されるんですよね。

感動というか感涙のポイントは、やはりラストシーン。
いっしょに見てる子供の手前、号泣はしませんがそれでも涙がでてしまう。

主人公ネロの死は、これでもかと言わんばかりの不幸の連打で、とにかく「かわいそう」の一言に尽きますが、臨終の間際に普段は見れない大聖堂のルーベンスの名画をついに見ることができたというところが唯一の救いになっています。

テレビシリーズの際、ラストシーンを変更しネロが死なないように、との嘆願が多くあったらしいのですが、「死は終わりではなく、天国への凱旋」という考え方が反映されたラストとなりました。
スポンサーのカルピスの社長でありクリスチャンでもあった土倉 冨士雄氏の意向があったとWikipeに記載されてます。

この世では、誰からも助けてもらえることなかった不遇の死ですが、ネロは神の慈しみのなかで天国に凱旋する。
ルーベンスの絵との偶然の出合いも、その表現の一つとなりました。

とてもいいアニメ映画だと思います。

ところで、Wikipeでは、テレビシリーズの際に、あの宮崎駿さんも、わずかに一部で製作者の1人として加わっていたと書かれてました。
ちょっと驚いたのですが、宮崎さんは「フランダースの犬」については「僕はゴミみたいな作品だと思うんですけどね」というコメントを残しているらしい・・・

もっといい作品に高めたかったというプロ魂ゆえの発言と思いたいですが、もし「フランダースの犬」のストーリーや世界観を揶揄する発言ならば少し暗澹とした気分になります。

世間一般では、宮崎駿さんは良質のアニメ制作者として評価も高く、子供たちへの影響力が強いからです。

丁寧に製作されているという意味で、宮崎アニメの質の高さは確かに認める。

全てのアニメを見たわけではないし、良い作品もあると聞く。

しかし例えば「千と千尋の神隠し」の美術は偽悪趣味そのものだし、あんな醜悪な世界を子供に許容させる感性がよくわからない。

私は「ゴミみたいな作品はむしろ『千と千尋の神隠し』のほうじゃないのか」と思ってしまう・・・

「風の谷のナウシカ」は原作本まで読みましたが、結局何がいいたいんだかなんだかよくわからない。
原作本のストーリーのディティールでは「この人は無神論者かな?」と思わせる箇所が何箇所かありました。

宮崎駿さん。子供向けアニメの王道を歩んでいる人ではなく、クセのある作品を作る人だと思います。

「好きな方はどうぞ」という感じですが、良質のアニメだからと手放しで評価し、すべての作品をテーマ的にも優良なアニメのような感じで別格扱いするのはどうなのかな?と思ってしまうのでした・・・

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