「カトリックとプロテスタント教会(聖堂)の見分け方は、十字架上にキリスト像があるかないか」というような言われ方をすることがありますが、カトリック教会の聖堂でも日本の場合は、必ずしも磔刑のキリスト像があるとは限りません。
私の所属する教会も十字架上にキリスト像がありません。
なぜカトリックなのにキリスト像がないのか?
聞くところによると、初めて教会の扉を開く人によっては、磔刑の酷たらしい姿を「直視出来ない」「拒絶してしまう」ということがあるようです。
やはり日本ではキリスト教の文化的な厚みに乏しく見慣れていないからかもしれません。
昨日は、キリストの受難の日、聖金曜日でした。
聖金曜日はミサではなく「受難の祭儀」。
全ての十字架、聖像に覆いをかけ、ロウソクなども置かない。
祭儀の始めは、普段とかなり違う雰囲気で、緊張感があります。
祭儀の中の「十字架の崇敬」のときに、布に覆われた「受難(磔刑)のキリスト像」の布を取りのけながら、初めて十字架が顕示され「見よ、キリストの十字架、世の救い」と掲げられ、このときがクライマックスとなります。
昨日の所属教会の祭儀ではかなり大きい受難像でしたので、とても緊張感があり驚いてしまいました。
記憶があいまいなのですが、昨年はこんなに大きな十字架ではなかったような気が・・・
受難像の大きさの違いでもこんなに印象が違うものなのかと・・・
聖金曜日の「受難の祭儀」は、平日なので、与れないことが度々ありましたが、「受難の祭儀」の重さを再確認しました。
「受難(磔刑)のキリスト像」も見る人や状況によって、印象が変わるものですね。
私の所属する教会も十字架上にキリスト像がありません。
なぜカトリックなのにキリスト像がないのか?
聞くところによると、初めて教会の扉を開く人によっては、磔刑の酷たらしい姿を「直視出来ない」「拒絶してしまう」ということがあるようです。
やはり日本ではキリスト教の文化的な厚みに乏しく見慣れていないからかもしれません。
昨日は、キリストの受難の日、聖金曜日でした。
聖金曜日はミサではなく「受難の祭儀」。
全ての十字架、聖像に覆いをかけ、ロウソクなども置かない。
祭儀の始めは、普段とかなり違う雰囲気で、緊張感があります。
祭儀の中の「十字架の崇敬」のときに、布に覆われた「受難(磔刑)のキリスト像」の布を取りのけながら、初めて十字架が顕示され「見よ、キリストの十字架、世の救い」と掲げられ、このときがクライマックスとなります。
昨日の所属教会の祭儀ではかなり大きい受難像でしたので、とても緊張感があり驚いてしまいました。
記憶があいまいなのですが、昨年はこんなに大きな十字架ではなかったような気が・・・
受難像の大きさの違いでもこんなに印象が違うものなのかと・・・
聖金曜日の「受難の祭儀」は、平日なので、与れないことが度々ありましたが、「受難の祭儀」の重さを再確認しました。
「受難(磔刑)のキリスト像」も見る人や状況によって、印象が変わるものですね。