今年もまもなく終えようとしていますので、この1年を振り返ってしまいますが、今年は私にとっても結果的にとても重要な年となりました。
実は、うちの子が受洗した年なのでした。
産まれたときは、私自身が教会から離れてしまってましたから、幼児洗礼どころではなかった・・・
私が教会に戻るようになって、ミサに子供をつきあわせるようになり、そろそろ初聖体の年齢ということで、そのタイミングでなんとか滑り込み・・・というわけです。
初聖体ぐらいの年齢では、自分で信仰を自覚しているとはいいがたく、実態は幼児洗礼みたいなもの。
もとより本人の意志で選ぶものではないとは思ってはいますが、やはり人生を左右することにはなるので、いちおう本人の意志は確認しました。
「洗礼受けるとご聖体をいただくことができるようになる。洗礼を受けるか?」
「受ける・・・」
ほとんど洗礼と初聖体がワンセットで、なにか子供の好奇心に便乗したような感じでしたが、やはり運命のような、命のパンの導きのような感じがしました。
洗礼を通じてついに私の子も「私に従おうと思うのなら自分を捨て自分の十字架を担って従え」(マテオ16-24)ということになった。
おそらく年齢を積み重ねていくとともに「私は道であり真理であり命である」(ヨハネ14-6)という言葉を、ホスチアを通じて体で感じるようになっていくことでしょう。
こういうところが、やはりカトリックという感じがします。
「洗礼なんか受けんでええ」と言いつつ、あんパンをホスチアに見立てて、カトリックの信者ではない人にも配っている釜ヶ崎の本田哲郎神父からしてみれば、ご聖体ほしさに受洗した我が子の洗礼は無意味になってしまうわけですが、本田神父のホスチアに対する感覚は、私とは決定的に違っています。
私の信仰、特に教義理解など、フランシスコ会の管区長まで務められた本田神父と比べるまでもないのですが、私の感性ではとても受け付けることができない。
私なりに、五感を研ぎすませて真贋を見極めています。
本田神父のような人がいる以上、子供にも怪しげな人には近づかないように言い聞かせていかなければなりません。
そろそろ、パーテルノステルとアヴェマリアも教えたい。
「ラテン語の祈りは信仰の鎧」とか言ったりして・・・
今年も、いいたいほうだい好き勝手な事を書きましたが、弊ブログを拝読いただき、大変ありがとうございました。
皆様よいお正月をお迎えください。
来年も拝読いただけましたら幸いです。
実は、うちの子が受洗した年なのでした。
産まれたときは、私自身が教会から離れてしまってましたから、幼児洗礼どころではなかった・・・
私が教会に戻るようになって、ミサに子供をつきあわせるようになり、そろそろ初聖体の年齢ということで、そのタイミングでなんとか滑り込み・・・というわけです。
初聖体ぐらいの年齢では、自分で信仰を自覚しているとはいいがたく、実態は幼児洗礼みたいなもの。
もとより本人の意志で選ぶものではないとは思ってはいますが、やはり人生を左右することにはなるので、いちおう本人の意志は確認しました。
「洗礼受けるとご聖体をいただくことができるようになる。洗礼を受けるか?」
「受ける・・・」
ほとんど洗礼と初聖体がワンセットで、なにか子供の好奇心に便乗したような感じでしたが、やはり運命のような、命のパンの導きのような感じがしました。
洗礼を通じてついに私の子も「私に従おうと思うのなら自分を捨て自分の十字架を担って従え」(マテオ16-24)ということになった。
おそらく年齢を積み重ねていくとともに「私は道であり真理であり命である」(ヨハネ14-6)という言葉を、ホスチアを通じて体で感じるようになっていくことでしょう。
こういうところが、やはりカトリックという感じがします。
「洗礼なんか受けんでええ」と言いつつ、あんパンをホスチアに見立てて、カトリックの信者ではない人にも配っている釜ヶ崎の本田哲郎神父からしてみれば、ご聖体ほしさに受洗した我が子の洗礼は無意味になってしまうわけですが、本田神父のホスチアに対する感覚は、私とは決定的に違っています。
私の信仰、特に教義理解など、フランシスコ会の管区長まで務められた本田神父と比べるまでもないのですが、私の感性ではとても受け付けることができない。
私なりに、五感を研ぎすませて真贋を見極めています。
本田神父のような人がいる以上、子供にも怪しげな人には近づかないように言い聞かせていかなければなりません。
そろそろ、パーテルノステルとアヴェマリアも教えたい。
「ラテン語の祈りは信仰の鎧」とか言ったりして・・・
今年も、いいたいほうだい好き勝手な事を書きましたが、弊ブログを拝読いただき、大変ありがとうございました。
皆様よいお正月をお迎えください。
来年も拝読いただけましたら幸いです。