カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2012年11月

歴史的大事件をもって歴史を区切るならば、中世の始まりというのは、どうしても「ローマ帝国の崩壊」以降と思ってしまうのですが、後期のローマ帝国は最盛期のローマ帝国とはかなり異なっていて、すでに中世の兆しが現れていたようですね。

フランク王国カロリング朝の時代というか、やはりカール大帝などが登場しないと中世という感じがしなかったのですが、よくよく考えればコンスタティヌス大帝がミラノ勅令でキリスト教を公認してからのローマ帝国の歴史があるわけで、聖アウグスティヌスや聖ヒエロニムスが存命のときは、まだローマ帝国だったんですよね。

Christus vincit  キリストは勝ち
Christus regnat   キリストは支配し
Christus imperat キリストは君臨する


というローマ帝国だったわけです。

皇帝ネロのようなキリスト教を迫害するローマ帝国のイメージのほうが強いので、なかなか実感がなかったのですが、後期ローマ帝国という見方をすると、少しスッキリすることを知りました。

この後期ローマはコンスタティヌス大帝の少し前、ディオクレティアヌス帝による分担統治(テトラルキア)の開始が転換点だったらしい。
広くなりすぎた国土を分担統治で目が行き届くようにするというのは良かったのだけど
分担統治が官僚組織の肥大化をまねき、国家財政を圧迫。
軍事支出に支障をきたし軍事的にも弱体化。安全保障にほころびが出始め、属州からの徴税がままならないという悪循環。
財政の問題は税制に影響。そして「広く浅く」が基本だったローマの税制が、重税化していく。
皇帝の立場も終身大統領制みたいな感じの元首政(プリンキパトゥス)から専制君主制(ドミナートゥス)へと政体の姿も変化。

現代の政治の構図にも似たような構図があるようなないような・・・
部分的にはあてはまるところもあったりして・・・

「滅びの予感」というか「国家の衰退」を実感するなかで、キリスト教が広がり浸透していったみたいですね。

キリスト教を世界宗教へと変えたのは聖パウロですが、その基盤が固まったのはこの後期ローマの時代。

歴史としても、もう少し詳しく知らなければならないと思いました。




野田さんが電撃的な解散を発表し、政治の世界が激しく動いています。
なんだかよくわからないというか・・・

とはいえ総選挙なのでどこに投票するか決めなきゃならない。

党首討論での野田さんは堂々としていて、人物だけ見れば、民主党の首相ということでは一番良かったとあらためて思いましたが、いままでの民主党政権の3年間をふりかえると、とても民主党に投票する気になれない。
幹事長に起用している人の顔がテレビに出るたびに、ああゆう感じの人をいつまでも要職の幹事長に起用したり、田中眞紀子さんを大臣にするセンスにやはり不信感が深まる。
野田さんの限界、民主党の限界です。
鳩山元首相だってまだ党にいるでしょう。私はこの人が民主党にいる限りはねえ。。。。
私は鳩山元首相は、日本の近代史で最悪の総理大臣だったと思っています。

しかし自民党もなあ・・・
政権交代の可能性はかなり高いけど、安倍さんはもう「景気刺激型予算で公共投資を増やす」とか言い始めてるでしょう。無駄な公共事業で膨大な赤字を築いた歴代の自民党政権に対する反省はないのでしょうか?
やはり自民党に勝たせすぎてはいけないとも思います。

第三極はちょっと大同団結で混乱している感じ。選挙区調整さえすれば、バラバラでも良かったんじゃないかとも思いましたが、比例の事を考えると合流したほうがいいんでしょうね。
「尖った特長が合流で丸くなっていっていく」「いままでの主張を棚上げする」というところが、やはり混乱というかわかりにくさの原因にはなってしまい、やはり野合という批判はされてしまう。
しかし全ての政策の一致ができればそれにこしたことはないですが、それは難しいわけで、政策に優先順位をつけて棚上げするところは棚上げし、理念の一致でまとまって存在感をしめすことは大事だと思います。
第三極に逆風が強まっているので、ささやかにブログで応援です。

ただし現実的には自民が第一党にはなるだろうから、連立政権をイメージして、連立の相手を決める選択という気もしてくる。

動きがはやすぎて議席配分がわからなくなりつつありますが、新聞ではあまり話題にならないもうひとつの第三極「生活」も40人ぐらいもいるんですよね。
「生活」がキャスティングボードを握ったら最悪という感じ・・・

本当の焦点は「維新」&「みんな」対「生活」という感じがします。

マスコミの論調はネガティブになりがちだから「ヨリマシ」というポジティブな思考で、少しでも日本の政治がマシになるように考えての一票の選択。。。。。

とにかく日本の進路を決める選挙になるから次の選挙はやはり大事です。

素人政談でした。


芸術の秋です。

いま関西では、東京に先立ちエル・グレコ展をやっています。
それほど好きというほどではないのですが、やはりこれは見に行かなければなりません。
エル・グレコはイタリアでルネサンスの写実性を学びながらも、トレドでは宗教的なテーマを表現するために、方向性がグッと抽象的になっていくんですよね。
光の表現とか浮遊感とか・・・この違いが興味深い。

また、京都の社寺では、秋の非公開文化財の特別公開をしています。
特別公開ということで普段見られない展示物を見ることができるわけですが、お寺そのものが普段は一般拝観を認めていないところもあってこの機会は貴重。
日本の国宝の17%が京都にあると言われているなか、少し足をのばせば気軽に見に行けるのは関西人の特権です。

拙ブログでも紹介した阿刀田高さんの名著「幻の舟」にでてきた、大徳寺聚光院の狩野永徳の障壁画「花鳥図」「琴棋書画図」永徳の父、狩野松栄の「竹虎遊猿図」をついに見る。
(下の画像は「花鳥図」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Birds_and_flowers_of_the_four_seasons.jpg)

Birds_and_flowers_of_the_four_seasons

同じ大徳寺の真珠庵も特別公開をしていてこちらには長谷川等伯の襖絵「蜆子猪頭図」などがあり、狩野永徳と見比べるように長谷川等伯も見ることができました。

加えて、東山の法然院まで足をのばして、こちらにある永徳の息子の狩野光信の襖絵も含め、狩野松栄→永徳→光信の親子三代という流れでも見比べ。

しかし京都の社寺は、庭園が素晴しいですね。
芸術作品を見るのも美術館で見るのとは異なる趣きがあります。
襖絵と庭が一体化して、庭も含めた美的な空間になるんですよね。

そして茶室・・・
聚光院、真珠庵にそれぞれありますが、コレがシブい。
同じ大徳寺高桐院には細川三斎(忠興)の茶室もありました。
(高桐院は細川家の菩提寺だそうで細川ガラシャのお墓もあります。)

480px-Shōkō-kenこの画像は、その高桐院の三斎の茶室です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Sh%C5%8Dk%C5%8D-ken.jpg#file

日本人には「侘び寂び」を美と感じる概念が既にあるから「シブい」という感覚を美しいと感じるスリコミがあるということかもしれませんが、やはり細部をよく見ると趣向を凝らしているんですよね。
光の取り入れ方が、かなりポイントのように思いました。
非常にミステリアスな空間であるということを再認識という感じ。

物見遊山、興味本位な芸術鑑賞ですが、作者の意図を考えながら見ると謎解きのような面白さがあって面白い。
非公開文化財特別公開では京都古文化保存協会の方の説明を受けながらの鑑賞となりましたが、ナビゲーターがいて、細部のポイントを教えてもらえるとさらに理解が深まりますね。

大いに美的な刺激を受けました。

もう少し丁寧な感想を書きたいのですが、書き始めるとかなりのボリュームになりそうなので断念します。

また美しさというものを言葉で書く難しさも感じます。
私の表現力の問題だとは思いますが・・・

ところで美と醜の関係というのは、「醜は『美の欠如』」ということだそうですが、アウグスティヌスの「悪は『善の欠如』」というのに似ていますね。

「聖歌についての価値観と許容範囲をどう考えるか」ということでアレコレ考えましたが、私の場合、聖歌においては「価値観」も「許容範囲」も、とても感覚的であいまいなことに今回気づいてしまいました。

「なんとなくいいなあ」という状態で「価値観」と言ってしまうのは、ちょっとおこがましかった感じ。

しかし「価値観」というのは、もともとあいまいな言葉だったりして・・・

結婚なんかがそうですが「価値観が一致」という言葉と共に人生を共にしてしまったりするわけですが、実は「価値観」という言葉でさらっと流さないほうがいいんでしょうね。
「人生観」とか「家族観」とか「金銭観」とか「社会観」とか「国家観」とかっていう具合にもう一段階踏み込んだほうがいい。
結婚するとき「『家族観』が違うけど『金銭観』はいっしょ」というのでは、実はマズかったりするわけです。

書き出しにしょうもない話を書いてしまいましたが、実はこのところのニュースで、この価値観うんぬんということに対して世俗の政治の世界で起きようとしている変化に対しても似たような構図を感じてしまいました。

何の事か?

石原新党というか、第三極というか、新しい政治勢力の結集についてのことです。

知事を辞めた石原さんが「価値観がいっしょであれば微妙な政策の違いは乗り越えられる」ということで、維新の会やみんなの党に結集を呼びかけています。

しかし原発、消費税増税の是非、憲法観など、あまりにも政策の違いが大きいんですよね。
呼びかけられた「維新の会」も「みんなの党」も「野合」と思われることに対し非常に敏感になっている感じがします。

そのうえ石原新党の母体となる「たちあがれ日本」のメンバーをみたら、なんか新鮮な感じがしないというか・・・
石原さんの政治的な立ち位置もあまりにも右過ぎると思うし・・・

「おそらく結集は無理かもなあ」となんとなく思ってしまう。

石原さんの言う「共通の価値観」というのは「中央集権的政治体制の打破」「統治機構の改革」ということのようですが、言葉だけ見ると憲法観などよりも上位概念とは思えないように一瞬感じてしまいます・・・

しかし・・・・・
日本の中央官僚による統治機構というのは大東亜戦争の終戦をもってしても変わらなかったといいます。憲法のほうは帝国憲法から民主憲法に変わっているのにです。

私は社会保険庁の年金記録問題のときから抜きさしがたい官僚機構に対する不信感を持っているので「統治機構の改革」ということに対しやはり非常に期待感を感じます。

改革じゃ生温い!「統治機構に対する革命」でもいいくらい!!

「明治以降の官僚支配体制を変える」というのは、実はもしかしたら改憲よりも実は上位概念なのかもしれません。

明治維新だって「攘夷」はどこかにいってしまって「倒幕」で結集したわけだし、西南戦争の西郷さんだって、自由民権派から封建秩序回帰派までいろいろだったといいます。

「野合でもいいじゃないの。変わるなら」


そんなことを思ってしまいました・・・

しかし自分じゃ保守派のつもりだったけど、実はラジカルな自分に気づいてしまって、今度は自分の政治的立ち位置でまたまた混乱中・・・

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