カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2012年10月

「ローマ・ミサ典礼書の総則」では「カトリックのミサ典礼においては、グレゴリオ聖歌は聖歌のなかで首位を占めるべきである。」
とされているのですが、現在の日本のカトリック教会では、グレゴリオ聖歌はほとんど唱われていません。
こうした現状はとても残念だと思います。
私はグレゴリオ聖歌を復権させることが日本のカトリック教会の刷新につながると思ってます。

というのが私の考えの基本ベースなわけですが、グレゴリオ聖歌を復権させようなどという動きは、現実には末端の教会(小教区)ではほとんどないですね。

むしろ「子供と共に捧げるミサ」という名目で、ギターを使ったフォークミサが、じわじわ増えてる感じ。

ヴァチカンも「グレゴリオ聖歌は聖歌で首位」と定めながら、一方でギターの聖歌を否定してはいない。

何故なんでしょうね???

「ギターによる聖歌がオルガンを越える可能性を否定せず残しておくということなんじゃない?」という話をある人から聞いて目から鱗でした。

新しいものを即座に否定せずに、様子を見るというところかな。

よくよく考えれば、多声音楽、例えばバッハ、モーツアルトのミサ曲や聖歌だって、「首位を占めるグレゴリオ聖歌に対して挑んだ」と見ることもできるわけです。

ということで「即座に否定してはいけない」と自省して、教会のフォークミサでも、フォーク聖歌を大きな声で唱ってみる!!

う〜ん やっぱりだめでんな。
日本のフォーク聖歌は唱えば唱うほど悲しいほどにテンションが下がる・・・

正直な話、もうしわけないですが音楽的に完成度がいまいちなんじゃなかろうか。歌詞もやぼったいし・・・
グレゴリアンやモーツアルトを超えれるわけはありませんが、もう少しなんとかならないだろか?
日本中のカトリック教会で唱っているんですから、クオリティを上げないといけません。
私は音楽は素人ですが素人なりにそう感じます。

視野を世界に拡げれば、もっといい聖歌がいろいろあります。

以前、拙ブログへのコメントでご紹介いただいた
「Missa Bossa Nova」

http://www.youtube.com/watch?v=vaaBe6A8yyw
http://www.youtube.com/watch?v=hLKqCMfNUII&feature=endscreen&NR=1
とかは高揚感があって否定するには惜しい感じもあります。
う〜ん少し判断が迷う。やっぱり騒々しいだけかな。やはりタンバリンが耳障り。

「テゼの歌」というのもある。
http://www.youtube.com/watch?v=gVs0QAODPx4&feature=list_other&playnext=1&list=AL94UKMTqg-9ATaZH_LAlvhwZci74gnRVo
こっちは、拒否感はないですね。なかなかいい!!
少なくても、今の日本のフォーク聖歌よりは、はるかにいいです。

グレゴリアンの復権は勿論必要。

しかし、今のフォーク聖歌を放置して留まっていてはいけないような気がする。
レベルを上げるためには「フォーク聖歌からテゼの歌へ」という流れもいいのかもしれない。

新しい「アヴェマリアの祈り」が憶えられないという話を耳にします。
出だしが「恵みあふれる・・」に少し似ている。
そして途中から「めでたし・・」の口語版のようになっている。
似ているだけに紛らわしく混同するからなのでしょう。
お年寄りにとっては、やはり憶えることが苦労のようです。
お年寄りへの配慮が必要だと思います。

一方で「子供とともに捧げるミサ」がある。
小教区によってマチマチだけれども、なんとなく頻度が増えていっているような感じ。
このミサが、いつからどうして始まったのか正確に把握していないのですが、「子供は教会の中でもっとも『小さき人』だから」というような話を聞いたことがあります。
子供といっても赤ちゃんから高校生まで幅が広いし、うちの子供もそれほど気持ちが高揚しているようには見えない。
手段が目的化しているような感じがします。

「小さき人」のためと言うならば、子供もさることながら後期高齢者のお年寄りも「小さき人」ではないのか?

「子供とともに捧げるミサ」が必要ならば「お年寄りと共にささげるミサ」も必要ではないのか??
お年寄りが慣れ親しんだ「公教会祈祷文」をベースで!!
「天にまします・・」「われは天地の創造主・・」で!!。
聖歌はもちろんカトリック聖歌集で!!

なかなかいい感じですが、ますます混同混乱し「いまさらそんな事言われても・・・」と言われてしまうかもしれませんね・・・

もっとも、なんでもかんでも「小さき人」という決めつけはあまり良くないという声も聞きます。懸命に生きている人にとっては「小さき人」のレッテルに差別のニオイを感じることもあるようです。
難しい問題です。

「子供ミサ」のこと。「お年寄り」のこと。「小さき人」のこと。
いろいろなことが錯綜して頭の中でゴチャゴチャなままな記事アップとなりました。。。

カトリック教会では2012年10月11日から2013年11月24日までが「信仰年」と定められ、ヴァチカンでも開催の記念ミサが行われたらしい。
まだピンときていないところがありますが、カテキズムがキーワードのようですね。
少しづつ理解を進めていきたいと思います。

そういう意味では、先週の土曜日に「荘厳司教ミサ」に与れたのは、やはりよかった。
わからないままではありますが、いいスタートがきれたというかそんな感じ・・・

ところで「荘厳司教ミサ」は、毎回、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われていますが、この建物はカトリック、キリスト教関係者のみならず、建築物としても秀逸で、丹下健三建築の代表作として関心をもたれています。

_Mary's_Cathedral_Tokyo_2012Tokyo_Cathedorale_1







丹下健三氏・・・
東京代々木第一体育館や広島平和記念資料館、赤坂プリンスホテル、東京都庁の建築家として有名。

丹下さんはカトリックでご自身の葬儀も、この東京カテドラルで行われています。

葬儀と言えば、吉田茂さんの葬儀も東京カテドラルだったんですね。

私は、もう何回も訪れていますが、正直なところ教会としてはあんまり好きな建物ではなかったんですよね。やはりモダンすぎて荘厳さがないというか風格がないというか・・・
ステンレスの外観はピカピカしていて年月とともに風化していくような味わいがない。
いつまでもピカピカというのはそれはそれで価値があるかもしれませんが、やはりこの外観がどうも好みではないんですよね。

しかし、今回、荘厳司教ミサに与って、あらためて感じた。

Tokyo_Cathedorale_3












内部は素晴しい!!!!!


好みではない外観によってマイナスイメージを持っていましたが、建物内はとても荘厳な感じがします。

祭壇へのアプローチもいい。内陣への段が二段階のステップになっていて広さもあり結界を感じる。一歩一歩近づく感じがいいですね。
聖堂の中で最も大切な場所をしっかり見せ、威厳をもたせています。

そしてあの高い天井。
上部に行くほど狭くなっていく上昇感のような感じ。

「これはゴシックだっ!」と思った。

極めてモダンな建物なのでいままで気づかなかったのですが、内部はヨーロッパのゴシックの大聖堂のメタファーだったんですね。この建物に荘厳さを感じるはずです。
残響音7秒というのも極めて長いらしい。

最もカトリックでも「荘厳さ」や「威厳」という感覚を嫌う人もいますから、好き嫌いがハッキリ分かれる教会(建物)かもしれません。

ところで、広島の世界平和記念聖堂聖堂(広島カテドラル)のほうは、建築思想的には対極にある村野藤吾さんが設計されたみたいですね。
こちらは重要文化財になってます。

画像をみましたがこちらもいいですねえ。
設計コンペの募集要項では「日本及び海外の古典様式を避けること」ということだったらしいですが、こちらはどう見てもロマネスクかな。

名古屋のカテドラルもいい!

大阪と京都は・・・う〜んノーコメント・・・

先週の土曜日。今年の荘厳司教ミサが無事終わりました。

次回は一年後ということになります。
荘厳司教ミサを待ち遠しく思ってしまうと一年が早く過ぎて、すぐに年をとってしまいそうですね。

「『荘厳で聖なる美しい典礼』を復活させる」ことが主旨で、カトリックらしい荘厳さを「体感するミサ」という感じがします。
残響音約7秒の大聖堂で150人の聖歌隊、1000人近い会衆が唱うわけですものね。
自然に心が神にむかっていく感じ。
聖歌の大切さを実感します。

昨年はモーツアルトのラクリモーサに感動しましたが、今年はキリアーレがデ・アンジェリスだったので、グレゴリオ聖歌の良さを実感した年になりました。
残念ながら私の小教区では、デ・アンジェリスは皆無です。
カトリック聖歌の「定番中の定番」なのに、カトリック聖歌集がないから、もう歴史が断絶してしまいました。
小教区単位でグレゴリオ聖歌を復興させるのはもう難しくなってますね。残念ながら・・・

アヴェマリアも良かった!
入祭の時のグレゴリアンのアヴェマリアのときに、すでにもう鳥肌がたつようなゾクゾク感がありました。

「ミサというものに対して美的な刺激を求めてしまうのは、信仰が稚拙なためなんだろうか?」
「いやいや刺激を求めるということは素直で素朴な信仰なんじゃないか」と自問自答してしまいました。

NICEの方針のなかに「生き生きとしたものにするため典礼を刷新する」というのがありましたが、「荘厳司教ミサの姿でその目的が達成されてるんじゃないか」と思ったり・・・
皮肉ですよね。バンドミサまで登場してたのだから・・・

荘厳司教ミサの美的な刺激は、カトリックへの興味を持つ人や、洗礼を受けてもミサから遠のいてしまっている人に対し、教会に足を運ぶトリガーになると思います。

ラテン語の祈りも「刺激」なのかもしれません。
「意味もわからないのにラテン語をありがたがるのは変」という意見があるということをどこかで読んだことがありました。
ラテン語がわかる人は少数ですから正論と言えば正論。
しかし変であっても「ラテン語はありがたみがある」と感じる人は多い。

やはり「ありがたみ」というのは歴史の重みなんでしょうね。
歴史の中で何億人という人が祈り続け現代に残してくれたわけですから・・・

「美的な刺激」「ありがたみ」の大切さを感じつつ、これからも荘厳司教ミサに与り続けていきたい、そして主催者の CAFA を支援していきたいと思います。


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