カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2012年03月

ブログ更新のネタに困ってネットサーフィンをしていたら興味深い記事を見つけました。

尾崎豊さんが亡くなって20年なんですね。
尾崎さんの追悼式は社会現象でした。
ロマンティクなメロディーは美しく、時代を象徴するスターだったと思います。

「夭折の天才」
という感じ


今でも心の中で尾崎さんの歌を大事にしている人は多いんじゃないだろうか。

この季節になると、代表的な彼の歌である「卒業」がテレビなどで流れていた時期は長かったような・・・

しかし・・・・・私は、全く共感できないんですよね。
「被支配」「反権力」「生きたいように生きる」という感覚に対して、今でも全く理解できない。

故人としては悼み、作曲家としての才能を惜しみながらも、そのメッセージに対しては明確にNOと言いたい。

何故こういうことをあえて言うかというと、彼のメッセージに影響されている人は今でも多いと思うからです。

「支配、権力、権威に対する反発」
という考え
を思考の原点においている人はやはり困る。

「サヨク的感性」
ということなんでしょうね。

カタカナでサヨクと書いてもイデオロギー的な感じがしてしまうから用語的に不適切かもしれませんが、要は社会に対する甘えだと思います。
もっと前向きになって「人の為に尽くす人」「社会を支える人」になってほしい。

もっとも香山リカさんによると「今の若い世代は尾崎豊の歌に批判的『自己中』『何が不満かわからない』」ということだそうです。

20年前よりもはるかに厳しい現代で「卒業」し、社会に旅立たなければならない今の若者は、やはりシビアで大人です。
頼もしく立派だと思います。

自分の聖書理解の浅さを実感しました。

18日のミサの福音書朗読(ヨハネ福音3)で、ニコデモが登場しましたが、ニコデモがどうゆう人物であるのかということ、何故、夜中に訪ねてきたのかということをいままでよく理解してこなかったことがわかりました。

ニコデモは、現代ならば大学教授&国会議員のような名士だったんですね。
公然と昼間に会うの憚って夜更けに訪れたのは、キリストに批判的なファリサイ派だったこともあるし、地位も名声もあるからメンツにこだわったのかも。

キリストに惹かれつつあったニコデモは「あなたは神から遣わされた師」と敬意を示しますが、キリストは社交辞令は無しで「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができない」といきなり直言する。
しかも「あなたはイスラエルの師でありながら、こんなこともわからないのか」とバッサリ言われて、ニコデモがどんな気持ちで帰路についたのか想像がつくような・・・

ただし、ニコデモが登場するのは、実はこの時だけじゃなかったんですね。
私は完全に見落としてました。
このあとに同じヨハネ福音書に2回登場するわけですが、夜更けの対談はその伏線なっている感じ。

そのうちの1回はキリストの十字架降架の場面。(ヨハネ19-39)

遺骸の受け取りのところで、チラッとニコデモの名前があり、ニコデモの心の変化を感じる記述であることを知りました。

夜更けの対談は、バッサリ耳に痛いことを直言されながらも、ニコデモにとっては「新しく生まれ変わる」きっかけだったんですね。

サブキャラクターを詳しく知ることが、聖書を味わい深いものにすることを再認識しました。


震災1年を迎えました。

時事通信のHPに「震災100枚の記録」という被災画像のコーナーがあり、あらためて今回の震災の凄まじさを思い出しました。

建物や街の凄まじい損壊の画像がならびますが、一番印象に残ったのは、雪の降るなかカップラーメンを握りしめ、たき火のお湯が沸くのを待つ子供の写真。
http://www.jiji.com/jc/pp?d=pp_2012&p=latest-photo820

頭をガツンとたたかれた感じ。
激しく反省しました。

やはり知らず知らずに、震災の被害に目を背けていた。

地震、津波の発生からは1年ですが、今でも震災は続いているという認識に持たねばならないと思います。

世の中全体も、ガレキ処理の受入れ問題などを知るにつけ、被災地の苦しみに鈍感になってきているような感じがする。
利他的な心が広がっていた時代の空気が、やはり放射能の恐怖によって、利己的な心ももたげているというか・・・・・

しかし「福島の子供の受入れを拒んだ保育園がある」と知って、これはなんぼなんでもあかんやろ!と思った。
イメージで拒んでしまうその臆病さにあきれる。

というかこれは人権蹂躙じゃないのか!!

「利他的な心」「利己的な心」が世の中で激しくぶつかり合っていますね。

しかしこれは自分の心の中でも同じ。

四旬節でもあるこの次期に、被災者のために祈るとともに、自分の心の中を見つめ直して「利他的な心」が勝るように、祈りたいと思います。


「信仰について」
教皇ベネディクト16世のラツインガー枢機卿時代のインタビューの記録)をパートごとにつまみ読みをし始めましたが、第12章「ある種の "解放” について」に下記の記述がありました。

「それに、1人ひとりを回心へと招くのではなく、ただ社会的、経済的構造にのみ影響をもたらして新しい人間と世界をつくることができるという、少しもキリスト教的ではないこの妄想が、痛ましくも(司祭や神学者たちに)感銘を与える。
実際は、不正な社会構造にしても、その根底にあるのは個人の罪なのである。
より人間らしく生きられる社会をほんとうに望むのなら、働きかけねばならないのは、不正義の木や幹や枝葉に対してではなく、その根に対してであろう。
”社会性がない” とか ”精神主義的” だとか軽蔑をもって拒否されようと、それがキリスト教の根本的真理なのである」



明瞭ですね!!

驚いてます!!

納得です!!

↑このページのトップヘ