カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2011年10月

そもそもパイプオルガンの生の演奏を聴く機会があまりないせいもあるからかもしれませんが、カテドラルの荘厳司教ミサのミサ後に、わずか約10分程ですがパイプオルガンの独奏があったのですが、実はこれが大変素晴らしかった!!!

ミサの中での合唱を伴う伴奏の場合と独奏とでは弾き方が違うという事なのだと思いますが、超重低音からかなり高い高温までが重なり合ってパワー全開で解き放なたれたという感じで、もう理屈抜きで、とにかく大迫力!!!とにかく荘厳!!!
もう、とことん魅了されてしまいました。

座っていた位置のせいかもしれないけど、オルガニストが見えなかったから人が弾いているように見えなくて、パイプオルガンに意思があるみたいに感じた。
まるでラテン語の歌声がカテドラルに響き渡った事をパイプオルガンが喜んでいるような響きというか・・・
もう普通の音楽を超えたというか鬼気迫る凄みというかあまりの迫力に圧倒されて動けなかった。

「神のための旋律」とはこういう事なのか!!!・・・と体感。

「荘厳さは、神を讃え賛美するためにある。」当たり前の事を再認識です。

おそらくパイプオルガンという楽器は絶対者である全能の神を讃え賛美するためにつくられた楽器」で、教会で聴くと、よりその良さを感じ易いのだと勝手に思ってしまいました。

また建築の方も、東京カテドラルは丹下健三さんの名建築なんですが、好き嫌いでいえば「少し現代建築すぎてちょっと・・・」という感じだったのですが、パイプオルガンの残響音の素晴らしさがあるいうことを今回初めて理解です。

ミサレットに、曲はJ.S.バッハの「プレリュードとフーガ イ短調」と書いてありました。
やはりバッハという人もスゴい人ですね。
モーツアルトにつづいてバッハにもつかまってしまった・・・

「プレリュードとフーガ イ短調」はかなりの難曲のようです。
演奏されたオルガニストのKさんへの賛辞が書けてない文章になってしまいましたが、「パイプオルガンが意思を持っているように感じた!」という文章をもって賛辞と感謝にさせてもらいます。

いやいやもう本当に感動!!!

荘厳司教ミサ。与りました。

溝部司教様を始め、司式してくださった全ての神父様、主催者の皆様、ご準備いただいた関係者の皆様、に深く感謝いたします。

昨年の荘厳司教ミサは、初めて与ったこともあって、私個人の問題としてはラテン語の式文を読む事に気をとらわれすぎた感がありました。
今年はバッチリといいたいところですが私の準備不足は昨年と同じ・・・

しかし、2回目ということでの気持ちのゆとりが少しあったし、やはり今年はレクイエムなので、「私個人レベルの出来不出来はどうでもいい」という素直さでミサに集中できたように思います。そんなこともあって昨年より感動が深かった。

個人的に縁のあった帰天された方々のお名前も預けてのミサだったので、やはり縁のあった人々との思い出や亡くなった時のこと、そして震災の事などが頭を駆け巡る状態・・・
お葬式のような心持ちでした。

聖体拝領の時に、今年は何回聴いたかわからないほど聴いていた 「ラクリモーザ」 が流れたときには気持ちが高ぶってかなり動揺した。
荘厳司教ミサという状況で聴けたのは、偶然ようでもあり必然のようでもあり・・・

単なる名曲への感動というだけではない複雑ないろいろな思いがいっぺんに交錯して涙が出てしまいました。
「『涙の日』を聴いて涙が出た」というふうに文字にしてしまうと「ふーん。ああそうですか」と言われてしまいそう・・・

いい年したおじさんが、目に涙というのはかなり情けない。
家の外にでるときは、平常心を保つための心の鎧を着ていますからね。
だれでも普通はそう簡単には心は乱されないのですが、やはり心の鎧をぶち破るのは、荘厳さの力です。

ただし荘厳さが必要なのは、そのためだけではない。
今回あらためて、別のもう一つの事も再認識したわけですが、その事は次回の記事で・・・


日時:        2011年10月22日(土) 
午後3時(諸聖人の連祷 2時40分 より)開場午後2時
場所:        東京大司教区カテドラル関口教会聖マリア大聖堂
主催:        カトリック・アクション同志会
主司式:       溝部 脩 司教(前高松教区 教区長)
共同司式:      司祭多数予定
ミサの意向:     全ての死者のため Missae Defunctorum
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以上 公式HPから引用。
http://www.tim.hi-ho.ne.jp/catholic-act-d/Web/21stmassinfo.html

今週の土曜日に荘厳司教ミサがあります。
今年はレクイエムです。
震災の年にふさわしいミサになりました。

東京は遠いですが、関西ではめったにないラテン語のミサ。
ラテン語ミサは他の地域でもほとんどないでしょうね。
典礼憲章では「ローマ典礼ではラテン語典礼が基本である」とされていると聞きます。
ラテン語がわからなくても(私の場合です)カトリックの本当のミサを体感するために荘厳司教ミサはやはり大事です。

拙ブログをご覧の方は、ご存知の方もおられると思いますが念のためお知らせでした。

歌というのは、詞が在って後から曲をつけるのか、曲が先でイメージに合わせ詞を書くのか?
普通はどうなのか詳しく知りませんが、マスカーニのアヴェマリアは、「曲→詞」の順番。
詞の内容を知ると曲のイメージと全く違うのでかなり戸惑います。

曲の方は、トスカーナの美しい丘陵地帯を眺めているような穏やかさというか、端正な佇まいというかそんな感じ。

詞のほうは、「我が苦しみをご覧あれ」「苦しみの苦悩に我を留めたもうな」という強い苦悩を訴える熱情溢れる詞
むしろカッチーニのアヴェマリアのメロディのほうが合う感じです。

ピエトロ・マッツォーニという人は、あの端正なメロディを知ったうえで、なぜあえて苦悩に満ちたこの詞をつけたのか???

このアンバランスさ、変に印象に残ります。


もっとも、もともとのオペラの「カヴァレリア・ルスティカーナ」も、愛憎話で激しいストーリーのようで、このときからアンバランスといえばアンバランスだったわけですから、ホントに不思議な曲です。

「イタリア人は陽気で単純」というようなステレオタイプの見方がありますが。ホントにそうだろうか?
ピエトロ・マッツォーニだけが変わっているという事でもなさそうな・・・

ただし喜怒哀楽が激しく情熱的というのは毎違いないと思います。

「顔で笑って心で泣いて・・・」と書くと陳腐な感じになってしまいますが、人生は複雑で単純ではないんですよね。

先日、家族でファミリー向けの気軽なコンサートに行ってきました。
にわかファンだし子連れなので本格的なコンサートは無理。
子供も大丈夫というイベントがあるというのはやはりありがたい。
ホールは多目的型ですがオーケストラピットもあってオペラも上演できる本格ホールで、演奏は関西フィルハーモニー管弦楽団。
企画としては気軽でも、演奏とホールは本格なのです。

オペラがテーマだったのですが、曲は、一回か二回は聴いた事があったかな?というような曲を中心に、いろんな楽器の特長がわかりやすい曲が選曲されてました。
うちの子はボロディンの「イーゴリ公〜韃靼人の踊り〜」が気に入ったみたいだった。子供は力強く派手でわかり易い曲がやはり好きですね。

やはり音響効果を考えてあるホールで生の演奏を聴くというのはいいですね、臨場感が全く違いました。

プログラムに「カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲」と書いてあって気づかなかったのですが「マスカーニのアヴェマリア」も演奏されました。
「カヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲」は原曲で、後から詞をつけて唄にしたのが「マスカーニのアヴェマリア」なんですね。知りませんでした。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」は三角関係の末に殺人を犯してしまう愛憎話のようですが、この間奏曲のメロディは大変安らかで美しくギャップに驚きます。

後からつけられた、アヴェマリアの歌詞は祈祷文ではなくマッツォーニという人の作詞のようです。

ネットで検索したら
「我が苦しみをご覧あれ」「苦しみの苦悩に我を留めたもうな」
聖母マリアに切々と苦しみを訴え慈悲を願う歌詞でした・・・

Googleで「マスカーニ アヴェマリア」と検索すれば、和訳された方のホームページがすぐ見つかります。

この曲にしてこの詞あり。

イタリア人の喜怒哀楽、熱情の強さに惹かれます。

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