カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2011年08月

レクイエムは、モーツアルト、フォーレ、ベルディの3人の曲をもって3大レクイエムと呼ぶそうです。クラッシックの世界は3大なんとかっていうのが多いですね。

モーツアルトは、ホントにトリハダで感動でしたが、フォーレもいいらしい。

昨年末は、アヴェマリアでしたが、今度はレクイエムを中心にアマゾンでいろいろ購入しました。

今年の秋の荘厳司教ミサもレクイエムですので、グレゴリアンも含め、しばらくレクイエムを聴き込むことになりそうです。




ブルーレイディスクを買って、久しぶりに映画「アマデウス」を観ました。
以前観たのはかなり前で、まだ若い時。
ストーリーが暗くあまり印象も良くなかったので、もう観ることもないと思っていたのですが、昨年末以来、少しづつモーツアルトに引き寄せられている感じがして、どうしてもまた観たくなりました。

今回の感想がどうだったかというと

「かなり良かった!!」


年齢と共に感受性って変わるもんなんですね・・・

極めて軽薄で下品でありながら天才的な音楽的才能をもつモーツアルトと、自分の才能不足を自覚して神を恨み、モーツアルトに嫉妬の炎を燃やすサリエリ。
人間的にちょっとどうかという二人が主人公なのですが、自分の才能の不足にうちのめされるサリエリに少し共感を感じるようになったのは、いつのまにか自分もやはり中年のオジさんになっているからでしょうか・・・

サリエリがモーツアルトの書いた譜面を観て、曲のイメージが頭に広がり陶酔して思わず譜面を落とすシーンがありますが、若い時は、いまひとつモーツアルトの曲の魅力を感じていなかったから、サリエリの気持ちが実感できてなかったんですね。モーツアルトはシャカシャカ忙しくてうるさいと思っていた・・・
今は、モーツアルトの曲の魅力に惹きこまれ始めてこのシーンの受け止め方が全く変わりました。

老人サリエリが、至福につつまれた表情で、自分の曲ではないモーツアルトの曲を回想するシーンもサリエリの哀れさが際立っていた。

この映画は、モーツアルトの音楽が、本当の主人公なのでした。

サリエリが神を恨み十字架を暖炉で焼いてしまうシーンがあったり、救いのないラストシーンを観ると、この映画は、あまりカトリック的ではない感じもします。
モーツアルトはフリーメーソンだったという話も頭をよぎります。

しかしK427 ハ短調ミサ曲「キリエ」K626 レクイエム「涙の日」は、何か人間が創った曲とは思えない神々しさにあふれていて、私は全身にトリハダがたって硬直してしまうのでした・・・

私も一年ぐらい練習して、こういうの教会で唱ってみたいんですけど・・・

最後に蛇足。
この映画は脇役が光っているのですが、老人サリエリの神への恨み節を、じっくりと聞く立場になってしまった贖罪神父の演技がピカイチ。
とても印象に残りました。いい表情をする俳優さんでした。

コメント欄で、リキオさんと教会建築についてお話していて、私が初めてイタリアを旅行したときのことを思いだしました。

 もうかなり前ですが、一般の旅行社のツアー。
一期一会のなかで老若男女が入り交じり、いろんな人と会話をする楽しさがあったのですが、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂を訪ねたとき、初老の男性の発言で印象に残ることがありました。


サン・ピエトロ大聖堂「無学な信者をだましてお金をださせて、こんな豪勢な建物を建ててけしからんよな。日本人にはこうゆう感覚はないな。俺はこういうのはイヤだ。」

不快に思うのなら何でイタリア旅行なんかしてるの・・と言いたくなりましたが、よくありげな反応ではありました。

私は「神を求める人間の心が、これほどまでに荘厳で素晴しい建造物を創造させるのか・・・」という感じで、とにかく圧倒された。

このような感じ方の違いは、「芸術に対する感性の違い」と思いがちですが、私は宗教観の違いも微妙に感じてしまいました。

聖堂という建造物を通して、絶対者である神の存在を感じたいかどうか。

少なくとも上記の男性は、ヴァチカンにおいては、神の存在よりも、この世の富について思ったしまったようでした。

これは、
「唯物論」「観念論」なのかなと思ったり・・・

伝統様式の聖堂が少しづつ消えていく今の日本のカトリックの現状を思うと、聖職者も含め
上記の男性のような感性の人が、やはり多いんだろうなぁ」と思ってしまうのでした。

(画像はサン・ピエトロ大聖堂ですが本文と直接の関係はありません
:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vatican_Altar_2.jpg)

「超訳 ニーチェの言葉」が大ベストセラーになっています。

何故、いまニーチェなのか?
ニーチェは、日本人にはなじみにくいような感じを持っていましたが、ベストセラーになるということは、厳しい世相や日本人の気質の変化もあるのでしょうか?

超訳 聖書の言葉第二弾で「超訳 聖書の言葉」も出版されています。
こちらは買ってみました。
驚いたことに、著者は同じ白鳥春彦さんです。
どういう方なのでしょうか?
「ニーチェ」の後が「聖書」というバランス感覚が凄いですよね。

「印象に残るところだけを抜き取り、わかり易い言葉で『超訳』する」という手法には賛否両論のようですが、わかり易さが私にとってはなによりでした。

特に旧約聖書は、私にとっては理解がまだまだなので「シラの書」や「格言の書」などは、正直な話、新鮮です。

極力、宗教色を感じさせないように『超訳』をしたそうです。
聖書を読んでる感じがしないんですよね。何か格言集のような・・・

目次がいいんです。「人生の苦難と果実」「善と悪と愚」「愛とは何か」など、さまざまなキーワードがならんでいて、気になるキーワードで拾えるのがいい。
心に響く箇所を、さらにバルバロ訳で比べたりするのもいい。

ビギナー向けだと思いますが、聖書の入門書として、いい本だと思いました。

ボンカト(幼児洗礼)のくせに、入門書というのがかなり・・・情けない・・・
これは私自身の問題デシタ・・・・・

書店で雑誌Penのイスラム特集に目を奪われてしまいました。

イスラム小イランのイスファハーンのモスクが表紙。一面に美しい青い装飾がなされたモスクの前で真っ黒いアバヤ(でいいのかな)を着た女性が1人。
同じ写真は本文にもあって、そのページには「在るのは己と神のみ」の言葉がふってある。

日本人でイスラムという人は本当に少数派だと思いますので、どんな人が買うんだろうと一瞬思いながら、あまりにも印象に残って、私も買ってしまいました。
イスラムについては、ほとんど全くといっていいほど知らないので、やはり好奇心です。

私はカトリックなのでイスラムについては信仰の対象ではないので、本当は全く語る立場ではないのですが、イスラムの人たちの信仰の表現のしかたについては前から尊敬を感じていました。

日本の土下座のような完全に敬服するような姿勢で1日に5回もメッカに礼拝。
礼拝のときの、朗々と響き渡る歌声はアザーンと言うのですね。初めて知りました。
やはり神を讃える歌という感じがします。
モスクにしてもアザーンにしても美しいと思う。

宗教は違っても本物感があるものは心を打つのです。

ふとフォークミサの事を思い出してしまいました。ジャカジャカとギターを弾きならして歌う稚拙で軽薄な歌。
およそ聖歌とは思えないまがいもののような感じが情けない。

これって音楽の嗜好の問題なんだろうか?
「本物」「まがいもの」かという問題のような気がするんだけど・・・

カトリックでもグレゴリオ聖歌ラテン語聖歌をもっと復権しないといけない。グレゴリアンもやはり「本物」なんです。

雑誌Penですがキリスト教特集に続いてイスラム教特集が出たことに少し驚いてます。こういう特集を買う人が多いということですものね。
書店の店頭では「超訳 ブッダの言葉」なんて本もベストセラーになってる。
ほとんど好奇心からだとは思いますが、購入する人が求めているものは、「本物の宗教ってどんなんなの?」という感じじゃないだろうか。
世の中いかがわしい宗教であふれてますからね。

「本物の教会」「本物の聖歌」
「本物」「まがいもの」 そういう見方も必要。

ということで「本物」って何?ということになってくるのですが、Rickさんのブログで書かれている「絶対的客観」という言葉に少しヒントを感じたのでした・・・

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