カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2011年06月

1.「権威」や「伝統」をあまり尊重しない
2.「自由」と「平等」と「平和」という言葉が好き
3.「権利」について語る(「義務」については語らない)
4.「権力」を嫌う(リーダーシップの強い政治家を嫌う)
5.個人的な問題を社会の問題ととらえる(社会の責任に転嫁する)
6.被害者意識で人権を考える。
7.愛国心を重視しない。
8.平和については性善説で考え空想的
9.軍隊は必要ないと思う。
10.○○○ネットワークというようなあいまいな組織を好む
11.格差があるのは差別の結果だとして糾弾する。

12.歴史観が唯物史観的。又は歴史観があまり無い。

ご意見もいただいてブラッシュアップもできて、とりあえず「サヨク」のイメージキーワードもこれで完成?ですが「サヨク」とは人間のタイプであるということで、だいぶイメージがクリアになりました。
世の中ではどんなタイプの人達とも共存していかねばなりませんが、正直なところ価値観の違いを乗り越えておつきあいするのはしんどい。できれば接点はなるだけ持ちたくないのが本音です。

残念な事に、日本のカトリック教会においては、正平協というサヨクエネルギーのかたまりのようなわかりやすい組織が存在しているからサヨク的な空気はただよっています。
政治的なメッセージに辟易している人も少なくはないし、100%サヨクのような人はなかなかいなくても、教会の掲示板には正平協のポスターが必ずあるし、正平協の影響力はやはりあります。

ただ実は・・・政治的なサヨク色は感じなくても、「変更」「改変」「刷新」という教会の動きのなかで、伝統色を薄めようとする意図に、私は「サヨク」を感じてしまいます。

「権威」や「伝統」をあまり尊重しない
からです。

「天使祝詞」
もついに公式には使用しないということになってしまいました・・・・・またひとつ伝統を失います。

サヨクの精神構造のコアにあるのは「反権威」「反伝統」ではないのか?
政治色を帯びていないだけにわかりにくく根が深いです。

キリシタン迫害の時代。
「8代あとには、ぱっぱ様のふねに乗ってパードレが来てくださる」という話を伝えた長崎外海の伝道士バスチャンは、そのパードレの見分け方を

1.聖母マリアを崇敬していること
2.独身であること
3.ローマ教皇に従うものであること


としたそうです。
この条件は今でも生きていると思いますが、「刷新」の動きのなかで、変わってしまう日が来るのでしょうか。
既にあやしい人もいるような気がしますが・・・・・

教会の掲示板にある本田哲郎さんのポスターをじいーっと見ながら、この方ははたして伝道士バスチャンの条件に合ってる方なのかと、疑い深い目でジロジロ見る、わたくしめなのであります。

日本のカトリック教会的には「サヨクな人」はヴァチカン的なものを「変えたがる人」であり、その反対は「ウヨクな人」ではなくただ単に「変えたくない人」「伝統を守りたい人」なのです。

「変化」→「不安定」→「動揺」
「変わらないもの」→「安定」→「浸透・深化」


という単純な話のような気もするのですが、なぜ「刷新」しなければならないか、わたしにはさっぱりわかりません・・・・・

ところで「変えたくない人」「伝統を守りたい人」というのは、どのような人なのでしょうか?
教会では表面的にはあまりわからないように思っていましたが、実は思いもよらない若い人が「伝統を守りたい人」であることがわかり驚く事があるのです・・・

「サヨクの人」の話にからんで、ネットサーフィンをしていたら「キリストの幕屋」のHPにたどり着きました。
「生命の光」という小冊子が家の郵便ポストに投函されていたことがあったのですが、「生命の光」は「キリストの幕屋」の広報誌だったんですね。

創始者の手島郁郎氏は、無教会派の内村鑑三の影響を受けた方だったのですが、GHQに追われる身となり阿蘇山に潜伏中に神の召命を受けて神の幕屋運動を始められたそうです。

「原始福音」「幕屋ペンテコステ」「旧約聖書と新約聖書を直接原典で学ぶ」「特に旧約聖書を重視する。ユダヤ教とも接点がある」「ヘブライ語の学習に熱心」「大和魂を説くなど民族主義的」ということで非常にユニークな教派。

民族主義の部分は、カトリックの正平協とは政治的には真逆ですが、インカルチュレーション的には想像できる帰結のような気がします。
「インカルチュレーションは日本ではどうなのかなあ。まだまだ再宣教からの歴史が浅いし。」と私は思っていますが、民族主義ならばストーリーに矛盾はないですよね。
キリストの幕屋を知ると、正平協はインカルチュレーション的にも矛盾だらけで、あらためて正平協っていったい何? という感じになってしまいます。

ところでキリストの幕屋の創始者手島郁郎氏ですが「阿蘇山で宗教的覚醒を覚え・・・」ということだったようです。
熊本人気質100%という感じ。

熊本バンドの話(士族子弟が人民の蒙昧を開かんとして花岡山で奉教趣意書に誓約し熊本バンドを結成)

宮崎八郎の話(中江兆民を経てルソーに感化され熊本協同隊を結成し西南戦争に参加)

神風連の話(廃刀令に反対し刀で熊本鎮台を襲撃)

などを思い出して、「やっぱり熊本人はラジカルなんだよなあ」と変な感心の仕方をしてしまうのでした・・・

熊本人って、新しい事でも伝統的なものでも、極端に入れ込んで突っ走ってしまうんですよねえ・・・

えっ!他人事のような言い方をするなですって!

そう!私もご先祖様より熊本人のDNAを、かなりいただいているクマモト系。 純血ではないのですが、半分はクマモティアンなのでした・・・

ということで閑話休題 次は「サヨクな人」にもどります。

「カルトの人」について書いた際、インターネットの「はてなキーワード」にその特徴と見分け方が書かれていて、非常に参考になったのですが、これにならって、私も「サヨクの人」の特徴を考えてみました。

イメージ主体で書くので、ネガティブな言葉を避け、極力、客観的に。

1.
「権威」や「伝統」をあまり尊重しない
2.「自由」と「平等」と「平和」という言葉が好き
3.
「権利」について語る(「義務」については語らない)
4.
「権力」を嫌う(リーダーシップの強い政治家を嫌う
5.個人的な問題を社会の問題ととらえる(社会の責任に転嫁する)
6.被害者意識で人権を考える。
7.
愛国心を重視しない。平和については性善説で考え空想的
8.
軍隊は必要ないと思う。
9.○○○ネットワークというようなあいまいな組織を好む

う〜ん難しいですね。 やはり、私の思い込みが入り込んで、決めつけてしまっている感じもして未消化ですが、ただキーワードはピックアップできたような気もします。

思想信条としてマルクス主義者や共産党員とは限らず、「サヨクな人」は、どこにでもいるような人なんですよね。
Rickさんが「啓蒙思想。フランス革命」との関係をブログに書かれていましたが、精神構造というかバックボーン、源流にあるものを、もう少し私も知る必要があると思いました。

日本人がもともと持っていたやさしい気質とずいぶん変わってきていますよね。

かなり前ですが、曾野綾子さんがエッセイで「『損をすることには黙っていない』ということを教育現場で教えていることに驚いた。」と書かれていたのですが、教育の結果として、現在の「サヨクの人」の気質にも影響しているようにも感じました。

「サヨクの人」の特徴のコアにあるのは「反権威」かななどと思いつつ「『人間は神のしもべである』という言葉を、一番理解してくれそうもない人達なんだよなあ・・・」とああでもないこうでもないとブログの記事を考えていた一週間でした。

「サヨク」(漢字の左翼ではない)という言葉が使われ始めたのはいつ頃からなのでしょうか?
明確な定義はないのかもしれませんが、明らかに漢字の「左翼」とはイメージが違って、最初に使いはじめた人の感性に感心してしまいます。

私の場合、漢字の「左翼」だと「全共闘、マルクスレーニン主義、共産主義、毛沢東、文化大革命、人民、ソ連、北朝鮮、ポルポト派の大虐殺」という感じのイメージキーワードの展開。
「革命」がイメージのコアでしょうか?
「反権力→革命→体制転覆→政権掌握→全体主義→民衆支配」・・・( ̄▽ ̄;)
イメージ今の若い人は「ソ連」と聞いてもピンとこないですよね。「左翼」はもう過去のものとなりつつありますね。

「サヨク」だと「平和憲法、人権、市民団体。○○市民ネットワーク、福島瑞穂・・・」少しソフトな感じかな。こちらは現在進行形。

私の場合、知識や教養の不足もあって何でもイメージで捉えてしまうのですが、それほど実体と違う感じもなく、キーワードを連ねていくとやはり「名は体を表す」感じがしてきます。
情報過多の時代だし全てを把握するのは不可能でキャパシティの少ない私は感性で見極めです・・・(汗)

「サヨク」の人の世界感に共鳴するか否かという事は、書かなくてもいいですよね。私は「サヨク」の主張にはネガティブ。

ただ最近思うのは、「サヨク」というのは思想や政治信条なのではなく「自己中心的な人」「自己愛が強い人」「慎重な人」「正義感が強い人」というような「人間のタイプ」なのではないかと思えてきました。

「サヨクな人」とはどんな人なのか、偏見にとらわれず、そのイメージをシリーズで考えたいと思います。

「離れている人」をテーマにいろいろと駄文を書いてきましたが、やはりカルトの話はしんどくなってきました。
「カルト」をキーワードに検索をかけてしまうとやはり知りたくない事を知ってしまったという感じでゲンナリです・・・
インターネットの黎明期に、その有害性、危険性についてはさんざん言われてきたけど、今でも全く変わらず、やはり注意が必要ですね。
もっともその危険性を上回るメリット、有益性があるから使っているわけだけど、やはりギョッとするサイトに出くわしてしまうことがあります。
驚いたことに「教皇」「聖○○○修道会」「神父」という言葉を使いながらローマカトリックを名乗るカルトが存在している事を知りました。

「聖ピオ十世会」ではないですよ。「聖ピオ十世会」はカトリック教会の内部の話。

もっと別のインチキカルト教団・・・
HPがグロテスクなので、知らない方には見て欲しくはなく教団名も書きたくありません。

この「教皇」はベネディクト16世ではなく別人・・・
私たちのカトリック教会と全く関係はなく目的も不明ですが、ただ単に偽者というだけでなく、HPを見ただけで教義的にもその異常性に驚きます。
なぜこんなカルトにはまってしまうのかとても理解できないですが、信者になってしまっている人達の姿は痛々しく、目が覚めるように祈るばかりです。

ダラダラ書いてもイヤになってくるだけなので止めました。

コメントをいただいたなかで、Rickさんが「光の中を歩まなければならない」という言葉を書いて下さった事が印象に残っています。

暗闇に目を向けないようにしないと・・・

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