カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2011年05月

教会に立ち帰った今では、ちょっとした様々な事がきっかけであったように思います。
お世話になった神父様の帰天や身内の病気があったり、本であったり、ニュースだったり・・・
自分の意思だけではない偶然の積み重ね。
祈らずにはおられない状況が増え、偶然だけど偶然ではない「神様の導き」のように思えました。

そしてあるサイトで「トリエント ミサの動画」を見た事も、今ではその一つだったように思えます。

「トリエント ミサの動画」 衝撃でした・・・・・・・・

祭壇に対しての司祭の向き方の違い、ラテン語での祈祷など、普段のミサといろいろ違うのですが、一番印象に残ったのは所作。
「人間ごときが神様を御迎えするための所作」とはこういうものなのかと驚き、カトリックの厳かさの原点を理解した。

ただし、今の御ミサのなかにも、この所作は生きているのですね。
先日ある御ミサで、神父様が入祭のときに祭壇に接吻されるのを見て、トリエントミサの所作の事を思い出してドキッとしました。
トリエントミサとノブスオルドミサの違いもさることながら、ノブスオルドミサのなかでの差異が大きいのかもしれません。バンドミサがあるくらいですから・・・

首都圏では、直近になってトリエントミサが某所で何回か行われ始めているようです。
SUMMORUM PONTIFICUM (スンモールム・ポンティフィクム)などパパ様の教令の影響が大きいのでしょう。
最近になって、また UNIVERSAE ECCLESIAE (ウニヴェルセ・エクレジエ)という指針がだされたそうです。
ウナ・ヴォーチェというトリエントミサ普及の団体の日本支部もできたと聞きます。トリエントミサは侍者の動きが難しいので大変心強くうれしい動きです。

そしてトリエントミサの事を考える時、私の場合は、聖ピオ十世会(第二ヴァチカン公会議の指針を拒んでヴァチカンと微妙な関係になっている)のことも思い出します。
聖ピオ十世会もまぎれもなくカトリック(少なくともカトリック教会外の組織ではない)なのですが、接点が持ちにくい状況になっている事を悲しく思います。ヴァチカンが活動を認めない限りはやはり近づけない。
難しい事はよくわかりませんが、聖ピオ十世会がヴァチカンの教導のもとで属人区のような形で認められる事を祈っています。

聖ピオ十世会の話はタブーになっているようなので小教区では話題にはしませんが、私にとってはやはり気になる存在。

なぜこういうことを言うかというと、上記の私が見た「トリエント ミサの動画」というのは聖ピオ十世会のサイトだったのです・・・・・

カルトの話を少し中断して、バンドミサについて、もう少し書き足そうと思います。

「ミサは御聖体という秘蹟に与る場である」というのが、やはり幼い頃からの公教要理の教えでしたから、秘蹟とは程遠いバンドミサの俗っぽさにはかなりショックを受けました。

「この人達は秘蹟というものに対し鈍感なのか?」
「それともこの俗っぽさに耐えられる強い信仰の持ち主なのか?」
頭の中も混乱し、どちらにしても自分の信仰とは違う人達のように感じ自然と距離ができました。

移ったばかり教会でしたが、「いきなりバンドミサ遭遇」で御ミサにも毎週通わなくなり、あっという間にほとんど御ミサに行かなくなった。

結局、私のように信仰の弱い人間は、カトリックの厳かさによってかろうじて信仰を保てていたのですが、文語の口語化などで厳かさもじわじわ失われていたし、それに比例して信仰のテンションも下がっていたので、この奇妙なミサによって我慢が臨界点に達したのだと思います。

よく「教会で祈るだけでは・・・」と言う事が言われますが、日常という俗なる場所から離れて、御ミサに与ることでバランスが保てていたのに教会が俗っぽくなってしまったらどうしたらいいのか・・・
いずれにしても教会から離れてしまったのは、私の信仰の弱さゆえで、バンドミサのせいだけにするつもりはないですが、この遭遇が引き金ではありました。

その後、教会籍を残したまま、また転勤、引越し。今は再転籍しましたが、このバンドミサの教会とは御縁が薄くほとんど奉仕もしなかった。
大変申しわけないことをしてしまいました。

引越しして別の教会が近くなったのですが、相変わらず離れたままだったのですが、私的な事でもポツポツといろんな出来事があって・・・・・
そうこうしているうちに列福式があった・・・
世の中も変わってインターネットも進化し YouTube が誕生して・・・
そして「トリエント ミサ」の動画を見た!!

これはバンドミサと全く逆の衝撃でした・・・・・つづく

カルトの特徴という視点で、3つの教派を見ると、やはり統一教会が一番カルト性ということではわかりやすい感じ。
教祖が選ぶ相手と結婚しなければならない合同結婚式の異常性が際立ってます。
霊感商法をしているという話もありました。伝道活動の一環として壷や多宝塔を売らなければならないとか・・・キリスト教のくせになんで多宝塔なんだろう?と思いました。
その昔、桜田淳子さんや山崎浩子さんの合同結婚式のときは大変な話題になりましたね。
友人と酒場などで合うときは、合同結婚式や霊感商法の事が話題になるわけですが「統一教会に入ると珍味を売らないといけないらしい。」という話をその時聞きました。
壷や多宝塔でも充分に変ですが、宗教団体と珍味という奇妙な組合せが変に印象に残り、その時以来「いかがわしい宗教」というのが私の統一教会の印象として固まっています。
そもそも霊感商法というのは論外ではあるのですが、いかがわしさというのは奇妙な取り合わせや行為行動でもやはり感じるものなんです。

この統一教会の合同結婚式騒動の頃の少し後に、私のほうは仕事の転勤で引越しがあり、それに伴い小教区の教会も移動となって教会の転籍というカトリックの信仰生活でのささやかな変化がありました。

ところが私の心のなかでは、ささやかな変化では済まなかった。
移った先の教会で、初めての「バンドミサ」との遭遇が待ちかまえておりました・・・

統一教会の壷、多宝塔、珍味に感じたいかがわしさと同様の感覚が、わたしのこころのなかで、この「バンドミサ」遭遇においても生じたかどうかは、この駄文を読んでくださる方のご想像におまかせします。

当事者は勝手に決めつけるなと怒るかもしれませんが「統一教会(世界基督教統一神霊協会」「エホバの証人(ものみの塔協会)」「モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)」の3つの教派は、キリスト教系のカルトとして警戒されています。

カルトと普通の宗教とは何が違うのか?

インターネットの「はてなキーワード」では、カルトの問題として「本人の人格破壊」「家族との関係破壊」「社会との関係破壊」の3点が書かれていました。
オウム真理教の事を思いだしますね。

「はてなキーワード」には、他にも15項目のカルトの見分け方が書かれていましたが参考になります。ツボをおさえている感じで合点がいきました。(ご興味のある方は、Google検索「カルト」ですぐ見つかります)

ところでカトリックを離れカルトに入信する人って多いのでしょうか?
教会では洗礼で信徒になる人はわかりますが、離教する人はなかなかわからないですよね。 ただし信徒名簿数とミサに与る人の数にはギャップがあるし、連絡がとれなくなっている人もいる。
「離れている人」「カルトの人」だったりする可能性があるわけです。

カトリック信徒を狙って勧誘するという教派もあると聞きます。
この3〜40年、NICEなどの運動によって日本のカトリック教会は、大きく変化してしまいましたから信徒が動揺するのも否めないわけで、カルトもそれを見透かしているんですよね。
俗事に埋没して信仰が薄まり離れる人だけではなく、逆に「俗化する日本のカトリック教会の現状に疑問を持ち→心の救済を求め別の信仰をたどり→カルトにいき着く」人がいるという事も想像に難くはありません。

カルトでは「社会からの迫害意識を持ち、それをかえってバネにする。」と言います。
「本人の人格破壊」「家族との関係破壊」「社会との関係破壊」になるのですから悲惨です。
「カルトの人」がカルトから離脱することを心から祈りたいと思います。

さて上記の「統一教会」「エホバの証人」「モルモン教」は、何がカルト的なのか?

シリーズで私なりに感じている事を書いていきたいと思います。

聖書における「ベタニアのマルタとマリア」の話(ルカ10 38〜42)は教会における奉仕の事を考える時にどうしても思い出される話です。
 昨年私は、小教区の役目で様々な旗ふり役を務める側の立場だったのですが、奉仕をしてると、マリアの事を身勝手だと思うマルタの気持ちがいたいほどよくわかりました。

しかしキリストは、マルタに対し「あなたはいろいろなことを心配して心を使っている。だが必要なことは少ない。いやむしろただ一つである。マリアは自分から奪われることのないよりよいほうを選んだ」と言って、マリアを庇いますよね。

バタバタしている当事者だったので、釈然としないというか「マルタはかわいそうだなぁ・・・」という感じがしていたのですが「必要なことは少ない。いやむしろただ一つである。という意味をかみしめて、客観的によく考えると、確かに「共同体としての一体感を高めるのが目的」みたいな行事が少なくありません。

「教会じゃなくて労働組合もこういう行事はしてるよなあ」
と感じたときは、必要性の要否について意見具申をしていこうと思いました。

やはり「主のみことば」に耳をかたむけることのほうが大事です。
今年は、ベタニアのマリアを見習おうと思います。

身勝手な人と思わないでくださいね・・・・・

↑このページのトップヘ