カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2011年04月

ご復活おめでとうございます。

大震災があったため、キリストの受難と被害を受けた方々の被災とが、四旬節の期間中、心の中でずっと重なっていました。

震災のほうは、まだまだ進行形。先が見えない状態が続きますが、被災した方々と心を共にして歩んでいかなければならないと思います。

そして私の小教区の復活祭の御ミサ。こういう状況であることが相まってやはり気持ちが高揚します。
昨日の復活徹夜祭のミサも、今日の復活の主日のミサも、いい御ミサでした。
毎年少しずつですが、荘厳さが増しているように感じます。

ひさしぶりに、栄光の賛歌を唱って、以前「栄光の賛歌はいいなあ!」とコメントいただいたステパノ・アクラさんの事を思い出し、そして目の前で行われている洗礼式が、まるでステパノ・アクラさんの堅信式のように思えてきてジーンときてしまった。

そして、今日の御ミサで、奉納の少し前のとき「アヴェ・ベルムコルプス」がオルガンで伴奏された!!! 
これはまったく想定外でもう感無量・・・

受難と復活の意味をかみしめました。良かった・・・・・

ところで、今日の復活の主日のミサの「聖書と典礼」についてなのですが最後のページに、大阪教区の中川神父様の 「復活は喜びへの希望です」というコラムがありました
そのなかでわたしたちは復活を死体の蘇生と誤解しがちです」
と書いてあってちょっとひっかかった。
科学万能の現代にあっては、そう言ってしまったほうがスッキリしてしまうのかもしれませんが、「こんな身もフタもないことを書いてしまっていいの・・・」という感じがした。はたして断言するべき事なのか?

「私を見ずに信じる人は幸いである」で有名な聖書の一節、ヨハネによる福音-20章
最初は復活を信じなかった聖トマスが、復活したキリストに直面して「我が主よ。我が神よ。」と言うわけなのですが、この言葉は聖変化のときに唱えていいとされていますので「誤解しがちです」に釈然としなかった私は、今日のミサでは唱えることにしました。

エマオの晩餐
カラバッジョの「エマオの晩餐」
では、いままでと全く違う姿で復活したキリストの姿が生々しく描かれている。
姿の変わったキリストに全く気づかない宿屋の給仕のように、見えていない人がいるところが興味深いですよね。

肉体の目か心の目かはわかりませんが、弟子たちには、復活したキリストが確実に見えていた。

それでいいと思うんです。

先日、巡礼さんにいただいたコメントで、「キレネのシモン」の存在を思い出してから、「共存共苦」という言葉を思い浮かべています。

聖書における「キレネのシモン」の記述は、3つの福音書に書かれながらもあっさりしていて、「ゴルゴダの丘」への道のりでキリストと共に十字架を担ったというだけ。
通りかかったところで兵士につかまって「担がされた」感じで主体的に手伝った感じではないのだけど、「十字架の重さ」を体感した人物として興味を感じさせられる人物です。

人間は弱く、自ら望んで苦しみを担うことが出来る人は極めて稀だけど、「キレネのシモン」のように、苦しむ人の十字架を偶然に担がされる事がある。

被災者の苦しみには遠く及ばないけど、苦しむ人たちを目の前にして、私たちも共にその十字架を担う覚悟が必要です。「共存共苦」です。

これは、精神的な話だけではなくて、日本で生きる一市民の生活負担の話でもある。

想像以上の津波被害原発災害によって財政負担は膨大な額となり、震災に遭遇しなかった多くの人の上にも、日本で共に生きていく以上、負担はのしかかる。
電力供給についても稼働中の原発を止めることはしばらくないでしょうが、原発の新設はもうありえない。稼働停止中の原発再開でも極めて難しい。電力エネルギーに関しては、今までのような消費の姿はありえなくなりました。


しかし、電力消費の姿も含めた過剰な消費生活が本当によかったのか?とも思います。

「共存共苦」
の先には、従来の延長線上ではない、パラダイムシフトによる新しい未来がある。

「経済的にも、生活も、精神的にも、これから日本は変わる!!」


自然に対する畏怖の念。
科学技術を妄信することへの反省。
利他的な心の復活。
金銭的な価値に隔たらない幸福感。
共感消費の拡がり。


新しい未来に対するイメージが頭の中で広がり始める・・・
現実を直視しつつも、悲観してばかりいたら暗くなるので前向きに考える事が必要だと思うんです。

15日の避難所の状況調査の報道で絶句した・・・

赤坂プリンスホテルが避難所になるというニュースがあったから、一次避難所から、宿泊施設などに移っているものと思っていた。

5パーセントの避難所では、この一ヶ月一度もお風呂に入れていないらしい・・・

ほとんどほったらかしじゃないか・・・
こんな状態では病気になる。

私自身たいしたことができていないし、政府とてこの緊急事態で大変なんだからと思っていたから、政府批判は控えようと思ってきたけど、この現状は少し酷すぎる・・・

この調査、避難所に書面を送りつけての回答の結果らしい。
何故、現地に直接見に行って調べない!!!

7割は回答がなかったらしいけど、「報告しろ」といわんばかりの政府の姿勢に絶望しているのではないか・・・

まるで大けがして血を流しているケガ人を前にして、入院するための書類を書かさせ、自分は患者を診ないでカルテを書いている医者のような対応。

内閣府の被災者生活支援特別対策本部
「環境の改善が必要な避難所への支援強化を県、市町村に要請する」だって!!

地方の行政機構が崩壊している状況なのに、こんなに酷い状況でも地方の自治体まかせなんて酷すぎる。

だいたい被災地域をきちんと特定し、通常の行政区域から切り離して支援しないと大胆な事ができない。
県からは「東北復興院を」という声がでるのがわかります。

政府の対応、あまりにもレベルが酷すぎる・・・・
こういうときに、機能しない政府なんて、もう無意味。

国家公務員は、自衛隊以外は何も仕事してないのか?
テレビに映るのは、地方自治体の応援の人ばかりじゃないか・・・

官僚。国家公務員が動かない、動けない理由は何なのか?
民主党政府の舵取りに大きな欠陥があるような気がします。

杉良太郎さんが個人でやったことを、政府の力で大胆にやれば、状況は大きく変わるはず。

国家公務員の宿泊施設「KKRホテル仙台は、通常通り営業を再開いたしました」だって!!「歓送迎会プラン受付中」だって!!
営業再開しなくていいから避難所にしてください。

避難所で亡くなる人が出ることはあってはならない。
それは天災ではなく人災・・・

もう怒りで文章メチャクチャ・・・

杉良太郎さんの炊き出しが話題になっています。

4月1〜3日の3日間。カレーなど8500食、水3トン、灯油3600リットル、その他、下着、歯磨きセットを携え、タンクローリー車を含む12台の車両で24人のスタッフと共に11箇所の被災地を回ったらしい。

タンクローリー車も用意するスケールの大きさにビックリです!!

被災所に避難して3週間たって疲れがたまっているころに思いもしなかった支援を受け、被災者も驚いたと思います。そしてうれしかったでしょうね・・・「助けにきたぞ!決して見捨てないぞ!」という熱意と愛情がストレートに伝わったと思います。
歯磨きセットは、おそらく口の中の細菌が肺に入る「誤嚥(ごえん)性肺炎」と呼ばれる病気にかからないための気づかい。
震災後すぐには動かず、必要なものを見極め、準備を整えたあとに一気に動く。
日本人の繊細さとアメリカ人のような大胆さで行う支援はお見事で、杉さんが日頃から様々なボランティアを行われていたという話を合わせて知って感動してしまいました。

震災の直後のまだ遺体の収容が行われているころに、関西に基盤をおく芸能プロダクションのY興業の社長さんが、「環境が整ったら、被災地でチャリティライブをやりたい」という発言をしましたが、杉さんのアクションは全く対照的ですよね。
Y興業の社長さんも悪気はないのはわかりますが、環境が整うのを待って行動するというのは被災者の視点ではないように感じました。

最も、私も義援金を出すぐらいしか支援できていないので、Y興業の社長さんを非難する立場にありませんが、杉さんの被災者を助けたいという熱意やその行動力に感動し、自分も一万分の一でも杉さんのアクションを見習いたいと思いました。

管総理も、辻元清美ボランティア担当首相補佐官(ロクに活動しているニュースも伝わってこない、しかもサヨク的な政治信条のもとに自衛隊の活動を妨害しかねない人)などは即座に更迭して、杉さんを後任に当てては如何だろうか?

杉さんの炊き出しは、重く悲しい話題が多い中で少し元気が出る話題でした・・・・・

もう4~5年前になるかもしれませんが、NHK教育テレビの「にほんごであそぼ」という番組のなかで、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」を各地の方言で朗読するというコーナーが在りました。
収録は、スタジオではなく各地でのロケで地元の人の朗読だった。
なぜかバックミュージックでグレゴリアン聖歌が流されていたのだけど、不思議とマッチしていて、「雨ニモマケズ」の詩の中身とともに、いたく感動した記憶があります。
宮澤賢治は岩手の人でしたから、やはり東北弁の朗読は特に良かった。

「アラユルコトヲジブンノカンジョウニイレズ・・・東ニ病気ノコドモアレバイッテ看病シテヤリ、西ニツカレタ母アレバ行ッテ、ソノ稲ノ束ヲ負ヒ・・・ミンナニデクノボートヨバレ、ホメラレモセズ、クニモサレズ、ソウイフモノニワタシハナリタイ」

「愚直なまでの献身と忍耐と誠実さ」
東北人の気質のなかに脈々といきづいているようにも感じるこの徳性。
「雨ニモマケズ」で描かれる理想の人物像の姿に、宮澤賢治は影響を受けていた法華経の教えを投影したのだと思いますが、カトリックの私にはこの人物が何かキリストのようにも見えてしまいます。

 大切なものを失った被災者の方々の心に響く言葉。
どのような言葉なのかがいまだに私にはわかりませんが、もしかしたら宮澤賢治の言葉には、同郷の人の言葉として何か通じるものがあるのではないでしょうか。

 多くの失われた命に報い、尊い犠牲を無駄にしないために、残された私たちが大事にしなければならない心。
「雨ニモマケズ」の精神もその一つの心として大切にしなければならないと思います・・・

「雨ニモマケズ」は、宮澤賢治の没後に、その手帳に記されていた詩として見つかったのですが、冒頭部分に「11.3」と記されていて、「11月3日」に執筆されたと推定されています。
「3月11日」に数字が似ていて、少し不思議な感じ・・・
もちろん直接的には何の関係もありませんが・・・



ところで話は変わるのですが、
週刊ポストによると、佐々木俊尚という人が「『自粛』『不謹慎』反対運動」という運動を立ち上げるらしいです。「人がつながって一致団結する」ということと「圧力をかける空気をつくりだす」という行為は表裏一体で、容易にダークサイドに転ぶのだそうです。

被災者と同じ気持ちになることがどうしていけないのか?
「ひとつになろう」というメッセージに、イチイチ水を差すこの馬鹿げた行為。

私は「自粛がイヤなら勝手に自粛すんな!「『自粛』『不謹慎』反対運動」なんていう運動そのものを自粛しろ!」と言いたい。

考え方はいろいろですね・・・



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