カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2011年03月

3月11日から2週間たちました。

いまだかつてない大変過酷な災害。
「瓦礫のなかを、10才にも満たない子どもが二人で手をつないで離ればなれになった肉親を捜している。」
そんな大変つらい記事も読みました。
終戦後の日本で、これほどまでに厳しい災害はなかった。
被災者が失ったものを自分の立場に置き換えて理解しなければならないと痛切に思います。

私の住んでる地域は西日本なので若干の品不足はあっても被害はありません。代わりに緊迫感の欠如がある。
電車の中や昼食時の食堂でも、興味本位で無神経な発言や会話が時折耳に入ってきます。やはり精神的に未熟な若者の場合が多いですが、働きざかりの30代ぐらいの人もいます。
大変耳障りです。

文章に書くのも不愉快なので、いちいち書きませんが、どうして平気でいられるのか?

東北とは距離があるからなのか。
物的損害が甚大でそちらに目がいくからか。
痛ましさを直視する事で滅入るからか。

平気で花見の話をする人もいた。こういう状況で花見の予定を考える心境が私にはわからない。

キリスト教の話をするまでもなく、日本には「惻隠の情」という言葉があるはずですが劣化してしまったのでしょうか?

ビートたけしさんが「悲しみは個人的なものだから『死者不明者2万人の震災』ではなく『悲しい出来事が2万件起きている震災』と思わなければ被災者の悲しみはわからない。」ということを書いていました。

やはり「惻隠の情」には想像力が必要です。

「自分の事として考え悲しみを共有する。痛みを思う。」という気持ちを失い「自分の事、身の回りの事しか考えられない。人の苦しみを理解できない」というのはやはり心の病気だと思います。

震災の直後に石原都知事の「我欲を洗い流さなければ」という発言がありましたが「自分の事しか考えられない」というのは、この「我欲」なんでしょうね。
前後の発言に不適切なところがあってバッシングを受けましたが、「我欲」という言葉が大変印象に残りました。

実はえらそうな事を書いていても、私自身の心にもやはり「我欲」があるのを感じます。

「惻隠の情」「我欲」のぶつかり合い。意気地なしの私にとっては「我欲」をねじ伏せるためには、自分の力だけではなくやはり神様を頼ります。

しかし今は、心の整理でモヤモヤしてる場合ではないですね。
被災した方のために祈ること。そして募金をすること。
現地での救援活動復興支援活動や原発の事故拡大防止のために頑張ってくれてる人のためにも祈ること。なにか少し犠牲をはらうこと。「惻隠の情」に命じられるままに、いま私が出来ることをまずやる。これは私的なこころの動き。

そして、しなければならないことをする。
しなければならないこととは、私にとっての公的な使命。
私的なこころと公的な使命。両方とも大切・・・

想像を絶する大震災となっています。
家族を失い、思い出のこもった家、町を失い、絶望の底にいる人が何万人、何十万人もこの日本にいる。

被害が起きなかった地域にいる私は、この壮絶な現実にテレビのニュースでや新聞の記事で向かい合っていますが、あまりの被害の大きさに言葉もありません。

自分の住んでいる地域は、3月11日以前と何も変わっていない。電車のなかを見渡すと、ゴルフの雑誌を見る人、マンガを読んでいる人もいる。
自分には関係ないといわんばかりの姿にもどかしさを感じて悲しくなります。

しかし、高校生ぐらいの若者が声を張り上げて募金している姿もある。若者の純粋さに教えられます。

マザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく無関心である」
という言葉を思いだします。
まずは祈ること。何か少しでも犠牲を払うこと。

そして大切なのは被災した人の悲しみに少しでも近づくこと。
悲しみを共にすることも祈りのような気がする。
様々な悲しみのエピソードを、少しでも多くしっかり心に刻まなければと思います。

「復興しなければならない」「頑張らなければならない」「元気をださなければならない」という声も耳にします。
正しい事ですが、まだ一週間しかたっていない。

救援活動の中で遺体の収容がまだまだ終わっていないのに、そういう話はまだ早すぎると思います・・・

プロ野球をするという話には唖然としました。「野球を始めることで被災者を励ましたい」ということらしい。
チャリティーでもない。詭弁です。

「悲しみを乗り越えて復興を!」今の状態でこういう事を言う人が、どこまで被災者の事を思って発言をしているか、その真贋を見極めなければと思います。

「今は悲しみを共にするとき」

私はそう思っています。


そして最後に一言。
被災者の方の支援、亡くなられた方の収容、そして原発の危機に立ち向かうために献身的な活動をされている自衛隊をはじめとする関係機関の方に感謝し、心から応援いたします。

緊急事態、有事になっています。
ブログは平時のときのもの。
しばらく更新を控えたいと思います。

また、当ブログに原発についての記事がありますが、事故を危惧して避難されている方々のお気持ちを考え、しばらく掲載を控えます。

どうか、お許しください。

被災地の方、帰宅困難になっている方と同じ気持ちでいようと思います。

がんばってください! くじけないで下さい!

聖マタイの召命

これは「聖マタイの召命」というカラバッジョの絵です。
コントラストのはっきりしたカラバッジョらしい絵ですね。

一枚の絵として美しく、それだけで充分ではあるのですが、聖書の一節を描いたこの絵は様々な論議を引き起した絵として有名らしいのです。

何が議論を読んだのか?

実は「聖マタイの召命」という題でありながら、マタイがどの人物かよくわからないらしいのです。

「エマオの晩餐」以来、カラバッジョが気になっているのですが
この絵も「またカラバッジョにヤラレタッ・・・」という感じ。

マテオは収税人。当時の収税人というのは税務職員のイメージではなく、みかじめ料を集めてまわるヤクザ者のイメージかもしれませんね。

マタイ9-9では、収税所を訪れたイエスが、マテオを見るなりいきなり「私に着いてこい」と呼びかけるわけなのですが、この絵は
その場面を描いています。

果たしてマテオはどの人物なのか?

顔に光があたっていることもあり初老の髭の人物のように見えます。ただこの人物は自分の胸を指差しているようでありながら実は指先の方向が微妙にずれている。うつむきながらいじましく金勘定をしている若い青年を指差しているような感じです。
またイエスの視線も若干下がり気味で、髭の人物を見ているようには見えない。やはりうつむく青年を見ているような・・・
ただイエスの指差す方向は、また少し違う・・・

このうつむく青年がマテオという説が、今では強いようです。

この絵の青年はまだイエスに気づいていないが、次の瞬間イエスに気づき、そして彼の人生が変わる・・・・・

「エマオの晩餐」に劣らない劇的な絵です。


死刑についての見解を確かめるために久しぶりに正平協のサイトを見てみました。

やはり死刑廃止の論調ですね。

しかし「確かにそうかもしれない」と納得させてくれるような廃止論ではなく「死刑は絶対にダメ」と決めつけているだけなので説得力がありません。

「加害者の命も奪わないことが命の尊さを明らかにする」のだそうです。
では亡くなった被害者の命の尊さは明らかにされなくていいのか?
死んでしまったのだから仕方がないのか?
加害者の事のみを考え、被害者の事が置き去りという感じ。

「死刑は改心する機会を奪う」のだそうです。
しかし、「死刑の回避が、自分の罪と向き合わない結果となる」という事もあるのです。
「自分の死に直面して初めて自分の罪に向き合う加害者がいる」という意見には目を閉じ耳をふさいでますよね。

主張が軽いんです。

 被害者遺族が納得できる廃止論になってない。
遺族の苦しみとを悲しみを受け止め遺族の理解が得られる死刑廃止論でなければ説得力はなく無意味です。

本村洋さんの場合は、自殺をするか仇を取る(報復殺人)かというところまで追い込まれていた。

犯罪被害者とその遺族というのは、最も「小さくされた人」ではないのか?

いったい誰の為の正義なのか?

正平協の主張には全く共感できませんでした・・・

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