カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
キリシタンの時代から現代にいたるまでの「カトリックの日本人」についての記録や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
「伝統の断絶」と「政治指向」による躓きがある現在の日本のカトリック教会においては、ラテン語ミサの復興と普及が必要と考え、その実施に参加しています。

2011年02月

ゼノさんの話から一転して変わって裁判員制度の話です。
(脈絡のない展開ですみません・・・)

裁判員制度が既に導入されていて、私たちはいつ裁判員に指名されてもおかしくない状況となっています。
確率が極めて低いから実感がないけど、イメージは持っておかないと選ばれたときに慌てふためくことになる。

ところで裁判員制度はなぜ導入されたのでしょうか?
最高裁判所のHPには「専門的な正確さを重視する余り審理や判決が国民にとって理解しにくいものであった」というようなことが書かれています。
ただし裁判員が関わる対象は刑事事件、それも殺人罪などの重大な犯罪についての裁判とされています。
裁判員は法律的には素人ですから、有罪無罪の微妙な判断は難しく、どちらかといえば有罪は確定だが量刑をどうするかということでの判断を求めているような気がする。

もっとストレートに書けば、裁判員制度とは「『死刑にするか無期懲役にするか』という事について、一般社会の量刑感覚を確認するためのものなのではないか?」そんなふうに私には思えてきました。
裁判官とて1人の人間。人の命を絶つ決定を下す重さというのは大変な重圧なのでしょう。

ということで「死刑をどう思うか」ということについては、裁判員に選ばれたときのために一市民としての考えを持っておく必要があるのです。

「死刑をどうするか?」この論点は,多くの人の意見が分かれます。
政治家にも反対論者は多く、法務大臣となった人が執行命令を出さないという事がおきたりしている。

カトリックである私は、教会の見解というのが気になりますが、日本のカトリック教会では、正義と平和協議会を中心に、どちらかといえば死刑反対、死刑廃止の論調が強い。
死刑は人の命を絶つ事なので、ある意味反対する事は気持ちの上では自然ですね。

しかし一つ一つの事件を丁寧に深くみて、その事件の被害者に心をよせたとき、私は、軽々に「死刑廃止」に同調はできないのです。

その理由については次回で引き続き述べたいと思います。

ゼノさんは、ポーランド出身のコンベンツァル聖フランシスコ修道会の修道士。

ゼノさん1戦前の1930年にコルベ神父と日本に来られて1982年に90才で帰天されました。

戦災孤児の救援活動や恵まれない人への寄付を募るために物怖じしないであらゆるところにあらわれ、有名人になった。

日本語は上手ではなかったけれど、庶民的で愛嬌があり、カトリックではない多くの人からも愛された。勲四等瑞宝章という叙勲もされたんですね。

ゼノさんには、様々な逸話があるようですが、1981年に教皇ヨハネ・パウロ二世が来日なさった時にゼノさんと会われた話は有名。

老修道士の50年にわたる奉仕の日々をいたわるように、手を握り頭をなでた教皇に対して、ゼノさんは「パーパ、パパ」と大きな声を出し泣いた。
当時ゼノさんは、高齢によってかなり衰えが目立っていて「果たして、教皇とわかるだろうか?」という危惧があったことも後に知りました。

ニュースの映像だったと思うけど、この対面のシーンは今でも鮮明に覚えています。
この時のゼノさんの気持ちを思うと、今でも涙・・・

この世ではボロカバン一つで、宝は天の国に積み続けた人生だったゼノさんは、その翌年の1982年に帰天。

ゼノさんは聖コルベと会っていた、というより一緒に日本に来たぐらいだから、ずいぶん影響を受けていたのではないだろうか。
ゼノさんを通じて聖コルベという人を感じます。

ドン・ボスコの聖遺物が、日本を巡回されたそうです。
残念ながら関西での滞在はわずかで、私はお会いする事が出来なかったのですが、各地で多くの方の歓迎があったようで、久しぶりにいいニュースだなあと思いました。

ゼノさんの鞄そして、話は変わってこの写真です。

私は、ストレスが溜まると書棚のかたずけをするのですが、時に思わぬものと出くわしビックリする事があります。

「写楽」という古い写真誌が出てきて「なんでこんな雑誌を残しているんだろう」とパラパラめくったら、この写真を発見!
残していた理由がわかりました。 これはゼノさんの鞄です。

ぼろぼろくたくたになりながら、というかぼろぼろになっていることで、どこか神々しさを醸し出しているこのカバン。
日本の恵まれない子供達への奉仕に生涯をそそいだゼノさんの人生を象徴するような、そしてゼノさんその人を見るようなオーラにあふれています。

コンベンツアルにまだ残っているでしょうか?

聖遺物は、聖人となられた人の遺物だと思いますが。このカバンも聖遺物のような強い存在感がありますね。

とてもとても、いとおしくなるようなゼノさんのカバンです。

教会(小教区)のことで少し悩んでいます。

なるだけお役にたてるように、いろいろな頼まれ事は断らないようにしてきたのですが重荷になってきた。

頼られるのは有り難い事、名誉な事なのですが、「めんどうないろいろな役を押し付けられているだけではないか」ということも頭をかすめます。

そもそも教会内でいろいろな組織やグループとかが多すぎるんですよね。
いちいちグループで括るからそのためのリーダーを選ばないといけないし、なんやかんやと当番とか役割とか責任とかが生まれてくる。なんか仕事や労働組合の活動のよう・・・

教会というのは、会社のような利益共同体ではなく、神様のお導きで集まった信仰共同体なのだから、個人個人の素朴な集まりでいいんじゃないかと思うんですよね。

団塊の世代の諸先輩方からは「ああでないといけない、こうでないといけない」といろいろご教示賜るのですが、様々な事を抱え込んでいる自分には、身の丈に合わない事が多すぎる。

仕事、家庭、遠方で暮らす年老いた両親。自分のスキルアップ。気になることばかり。教会運営の些事はどうしてもその次になる。
団塊の世代の方々は「子供は親の背を見て育つ」というけれど、私は全くそうは思わない。
今の時期は、子供としっかり向き合わないとダメな時なんです。

というわけで最近ウジウジ悩んでいたのですが、曾野綾子さんの「『いい人』をやめると楽になる」という本を読んで、少し気持ちが楽になりました。
えっ!と思うタイトルの本ですが共感をするところがたくさんあるんです。

「誰でも自分の評判というものは気になるものだ。しかし評判ほど根拠のないものはない。私以外に私のこまかい事情を知っている人はないのに、その知らない他人が私のことを言っているのだから、評判が正しいはずはないのである。それでいてその評判に動かされる人が多い。世間というものが眼に見えない力で圧力をかけるのである。」

「評判なんかどうでもいい。自分ができることをやるだけ。」と
自分に言い聞かせる。

神様と向き合って「目を覚ましていれば」それでいいんだ・・・・・

↑このページのトップヘ