カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2010年12月

皆さんの教会のクリスマスの御ミサはいかがでしたか?

わたしの小教区では聖歌隊がラテン語聖歌を織り交ぜ本領発揮!
普段は存在感があまりなくラテン語のラの字もないのですがクリスマスだけは特別という感じ・・・
想定外でしたが、すばらしい歌声で感動しました。

クリスマスだけではなく、普段の御ミサでもぜひ頑張ってほしい。そして一般信徒にも指導してほしいと思った。

わたしも聖歌隊に入りたいのですが、いつの間にか雑務やシャカツ軸のお役で身動きがとれなくなってしまった(涙)

自分の出来ることでお役立ちを!というのは確かですが、教会は雑事が多く、人手が足りない所を手伝っているとそうなってしまうんですよね。

「損したな・・・」などとつい思ってしまう・・・

私の場合は、教会から遠ざかってしまっていた時期があるから、そのお詫び奉公でもあるし、神様が今の役回りを与えてくれたのは何か意味があるのだろうと思う事にしました。

ということで聖歌隊のおかげでとても高揚したクリスマスミサでしたが、最後に閉祭の歌の後に、聖歌隊に拍手喝采がむけられたとき、以前Rickさんのブログで教えてもらっていたことを思い出した。
「拍手はどこに向けられるべきなのか」ということ。
音楽会ではありませんからね。
こういうところは気をつけないと・・・

釜ヶ崎の本田哲郎さんとかが見たら隙だらけなんでしょうね。
「この寒空に凍える人達を顧みる事なく音楽会のような集まりに興じて、はたしてそこにキリストはいるのか・・・」とか言うんじゃないかな。
「釜ヶ崎の炊き出しの列の中にキリストがいる」という人ですからね。
徹底的に弱者の視点に立った発言には、正直耳をかたむけさせられる人もいるわけで、石を放り投げられたら本田神学に洗脳される人がでてくるんじゃないだろうか・・・・・

あの人は、異端者とか言われても,全く意に返さず、聖性や権威を否定し貶めそれを自分のエネルギーにするような怪物のような人。

聖性や権威の否定に対しては決して認めるわけにはいかない。

「釜が釜が」というわりには釜にとじこもってないんですよね。
うちの教会の近くの教会まで講演にきているのを知っています。講演が多いということは賛同者も多いということですよね。
現実の脅威です。

隙を見せたらいけない。
身構えてしまうのでした・・・

書いていたら、いつのまにか本田哲郎さんの話になってしまった。

身構えてピシッと気持ちを引き締めたところで本年のブログは終了したいと思います。
皆様、ご愛読大変ありがとうございました。良いお正月をお迎え下さい。

次回は、新年明けてからスタートしたいと思います。

みなさま、クリスマスおめでとうございます。

昨晩は寒かったですね。
この寒空で、産まれたばかりの赤ちゃんを屋外で抱いているお母さんを想像してしまいました。

ブログでは「厳かさ」とか「ラテン語」とか書いているクセに、実はこの1年、少し「シャカツ」的な事をやってました。

「シャカツ」→社会活動のことです。

もちろん政治色がない限りにおいてですが、スタイル的には労働組合のようでけっこう辛かった。

街頭募金だってしたんですよ。

これは意外な発見があった。
高校生ぐらいの若い人がお金を入れてくれるんです。それもストリート系の路上でパフォーマンスしそうな子が・・・・・
募金について変な色眼鏡でみたりしないで素直なんですね。
「人情」なんて言葉が思い浮かびました。

寒空の下で凍えている人のことを忘れてはいけない。

あたりまえの事ですが、そんなことを思わせてくれたのは、やはり「シャカツ」をしたおかげかもしれません。

「厳かさ」も「ラテン語」も薄っぺらなものにならないように自戒を込めて・・・「シャカツ」について書いてみました。



それと、わたくしめの、このつたないブログにご訪問してくださった方がついに10000回を超えました!!!
12月24日に10000を超えたというのが嬉しい。。。

いままで読んでくださった方、どうもありがとうございます。

そしてコメントしてくださった方。本当に感謝です。。。
続けられたのはやはりコメントをいただけたおかげです。

これからもまだまだ書き続けますが、どうぞよろしくお願いします。

かねてより気になっていた事なのですが、明治村の聖ザビエル天主堂でミサが行われているとの話を聞いていたため、昨日、行ってまいりました。

聖ザビエル天主堂1明治村に移されて、既にカトリック教会の教区の所有から離れている聖ザビエル天主堂ですが、博物館として所蔵されている現実からもわかるように、第一級の建築物。京都教区の元カテドラルでヨーロッパの大聖堂を思わせるすばらしい建物です。

カトリック教会の管理から離れているなかで、なぜミサが行われるのか?どのようなミサなのか?気になってました。

不思議に思いながら訪ね、ミサの式次第を拝見して納得。
この建物で結婚式を上げられている方々のためのミサでありました。

明治村では、年間に約80組の結婚式が行われるようで、その方々がクリスマスに招待されるようなのです。

結婚式を上げるだけではなく、新しい家族となった出発点を結婚後に再確認する場をもうけているのはとてもいいことだと思った。
子供を連れた若い夫婦が多いですが、おじいちゃんおばあちゃん連れや中年ご夫婦もいる。「結婚式はだいぶ前」という方もおられる感じです。

なんとあの広い聖堂が人でいっぱい!!
200人以上はいたんじゃないでしょうか!!

バッハのBWV147「主よ人の望みの喜びよ」のオルガン演奏で荘厳に始まりましたが、どのような御ミサかわからないので、私はなんとなく落ち着かない。
ミサとしてはあれもこれも大胆に省略。参列者はカトリック信者ではない人ばかりなので無理もありません。
途中で「これは本当にミサなのか?」と不安になるくらいだったのですが、神父様が「それでは、聖体拝領に移りますのでカトリック信者の方は・・・」ということで御聖体はいただくことができました。
想像どうり拝領する人はほんの少し・・・

しかし御聖体をいただくことで、「いまこの建物は、本来の姿であるカトリックの聖堂に戻った。」と思うことができました。教会内の御像にも息がふきこまれたような不思議な気持ち・・・
博物館となった姿に、正直なところ痛ましさを感じていましたので、聖堂にもどったということにいいようのない感動を覚えました。
ここでおそらく御ミサがあるのは一年でこのときだけ。
御ミサをあげてくださった神父様に深く感謝です。

聖ザビエル天主堂2聖ザビエル天主堂3







「許さなければ許されない。愛さなければ愛されない」お説教もいい話だった。
参列されていた方々も、神父様のお話を聞き、聖歌を歌い、家族出発の原点をふりかえっているのか神妙な面持ちでした。
宣教という言葉は、今この場で使われる言葉なのだと思った。

入口の聖水皿のところに、小銭がいっぱい入っていたのですがお賽銭?でしょうか?

未信者の人達をも素直で厳粛な気持ちにさせるのは、荘厳な空間の力。これは信仰の浅い私にとっても同じことなのです。

聖ザビエル天主堂のような厳かな聖堂は、まだ全国各所にあります。「厳かな聖堂で厳かなミサを!できればラテン語の御ミサを!」これは切なる願いです。

最後に少し蛇足・・・
ところで、カトリック教会でも「クリスマスにゴスペルを!」なんて催しをしている教会があるみたいですが、ゴスペルはやめましょうよ。ゴスペルが良くないって言いたいんじゃなくてカトリックに合わないって言いたいだけ。

そして今晩は、小教区で御降誕のミサ。

「心にしみるヴァイオリンの名曲10選」なんてテーマを考えていたら、「シンドラーのリスト」のテーマ曲が頭の中をよぎりました。きれいな曲ですよね。

今年は長い間さけていた「シンドラーのリスト」を、ついに観ることができた。

気持ちはそろそろ年末モードで、今年観た映画なんかを振り返ってしまいましたが、「シンドラーのリスト」以外はあまり印象に残らなかったかな。

いつ頃からかわかりませんが映画の質というものが、ずいぶん下がってきたような気がします。
ここのところ封切り映画で良かったと思う作品と出会えない。

私は、映画が好きなのでとても残念です。

確かに特撮の質などは上がったのだけど力の入れ所がそちらに移ってしまったのか、ストーリー性など他の面で、明らかに下がってる。

邦画なんか、もっとひどい。勧善懲悪のチャンバラでも見ようかと思って、先日ある映画を見たのだけど。グロテスクで悪趣味の極みだった。人間描写が浅くて後味の悪さしか残らない。こんなひどい映画を作って公開するなんて頭がおかしいんじゃないかと思うくらい腹がたって、もう邦画は2度と見るのは止めようと思った。 マーケティングで作っているみたいなハリウッド映画もどうかと思う時もありますが、邦画は監督の個性が露骨なので趣味が合わないときは、もう拒絶。これからの邦画大丈夫だろか。

たまたま観た映画がそうだったのかもしれないのですけど「家族愛」とかを描けてないんですよね。製作陣の人間性まで疑ってしまいました。現代の日本の価値観が現れているような気もして暗澹とした気持ちになります。

結局、DVDで封切り時に見れなかった名作を見る事になる。
観てない映画はいっぱいあるので、そのほうが無難です。

ところで、「シンドラーのリスト」ですが、実話に基づくこの話の真逆な二人の主人公。オスカー・シンドラーとアーモン・ゲートは、二人ともカトリックだったようですね。

いよいよ、クリスマスが近づきました。家族の大切さを思います。

モーツアルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」ですが、御ミサで聴いた事がありました。
いつだったかよく覚えていないのですが、確か四谷のイグナチオ教会だったと思います。聖体拝領のときに聖歌隊が歌っていたような記憶。

やはり「きれいな曲」だなと思いました。
ただその時は数あるラテン語聖歌といっしょくたにして「やはりラテン語聖歌はいいな」というような感じ方・・・

実はよく聴いているのは(ipodですが)最近です。

モーツアルトはあらゆるところで耳にするので、どうしても食傷気味で、望んで聴こうと思わなかったのですが、この「
アヴェ・ヴェルム・コルプス」は繰返し繰返し何回も聴いてしまう。
噛めば噛むほど味が出るなんとかみたいで、10回続けて聴いても飽きない。心境の変化に自分でも驚きです。

グレゴリオ聖歌で男性のアカペラを聴いて、アヴェマリアでソプラノの良さ、テノールの良さを実感した後だったので混成4部合唱の良さを体感しているのかもしれませんね。

もちろん圧倒的な旋律の美しさというのは確かにある。

しかし心を揺さぶられるのはそれだけはなく、その歌詞にもあると思うのは、やはり私がカトリックだからなのでしょう。

目をつぶって聴いていると、いろいろなイメージが広がりますが、哀愁のある旋律と、キリストの受難を唱う歌詞は、やはり鎮魂の曲で、殉教について思わされます。

cujus latus perforatum
unda fluxit et sanguine.
貫かれたその脇腹から血と水を流し給いし方よ。

Esto nobis praegustatum
in mortis examine.
我らの臨終の試練をあらかじめ知らせ給え。

のところです。

amakusasirou zinntyuuki 11

私の場合は「綸子地著色聖体秘蹟図指物・天草四郎陣中旗」などもイメージのなかに登場してきます。
漢字で書くと違和感があるけど、ビジュアルを見ると違和感はないでしょ。。。

アヴェ・ヴェルム・コルプスが、島原の空に響く情景を想像していると涙がでてきます。

美しいなメロディーですから、ちまたの結婚式場のチャペルで歌われることもあるようです。歌詞の意味を理解して歌われていないのですね。

私もイグナチオ教会で聴いたときは歌詞を理解してなかったわけで、同じだと思うとかなり恥ずかしい。というかもったいないことをした。
もう一度聖堂のなかで、御聖体を仰ぎ見つつ聴きたいと思います。

加えて、もう一言。

この一曲をもってモーツアルトの偉大さがわかる
と言われる珠玉の名曲なのに、聖堂の中で、あまり聴かれない唱われないというのは、なんとももったいないことですよね・・・

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