カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2010年10月

原点に戻るはずが、やはり横道にそれたネタになってしまうのですが、在俗しながら、カトリックの観想修道会のような厳しい生活をしているアーミッシュと呼ばれる人達の事が気になってwikipediaを見てみました。

アメリカとカナダで、20万人以上もいるんですね。
17世紀の移民当時の生活様式で自給自足の生活をし、ペンシルベニアドイツ語という言葉を話す人々。
ペンシルベニアドイツ語という言葉があることも知りませんでした。
電気もガスもない究極のエコライフ。あえて不便な生活を選ぶ精神力の強靭さに驚愕します。

アーミッシュの人達は、教会は権威の象徴になるとして、祈りの場は各家庭の持回りになるらしい。幼児洗礼もしない。宗教的にはカトリックとはかなり違いますね。

非常に興味を持ったのが、「16才になると親元を離れ俗世に出てあえて現代文明社会を一時的に体験させる(ラムスプリンガ)」という話。
あまりにも違う世界に飛び込んで大丈夫なんだろうか?
発狂してしまうんじゃないかと心配になります。
子供達が戻ってくるのか来ないのか。親としてはたまらん。

wikipediaには「ラムスプリンガ」が終わっても戻ってくるという話と戻って来ないという話が両方書いてあります。
戻らないのは決して「快楽」のない世界がいやだということだけではないみたいですね。やはり「自分の可能性」に気づいたり、「選択の自由」がある事が大きい。しかし戻らなければ絶縁されるそうです。家族を棄てる事になる。

「自由」や「近代」との激しい戦いを、青年たちにつきつける厳しい共同体社会。ホントに厳しい・・・・・

そこまでしなくてもと思ってしまいますが、気になる人々ではあります。

しかしアメリカという国は懐が深いですね。多文化共生ということでは教えられることが多いように思います。保守の概念も幅広い。興味深いです。

そういえば「刑事ジョンブック/目撃者」というアーミッシュを舞台にしたハリソンフォード主演の映画がありましたね。
傑作という話もあるので、観てなかったので観てみようと思います。

チリの炭坑落盤事故救出については、最近いいニュースがないなかで、とてもいいニュースでした。
ブログに書こうと思った矢先に中国で反日暴動が起きたりで、書くタイミングを逸してしまいました。
時事ネタでブログを書くのは難しいですね。

そろそろまた何回かに分けて書けるネタ。シリーズにできるネタ。ということを考えて思案してます。

本ブログのタイトルが「Cristiano giapponesi !」だから「キリシタン」「カトリックの日本人」をテーマにブログを書いてきたつもりなんですが横道に逸れる事が多いものだからなんでもありになってしまって・・・

また原点に帰ろうとも思うんだけれども、有名な人物ついて書くのはとても難しい。

高山右近についても中途半端なまま。小西行長もテーマアップしてない。

近代のカトリックでも超有名な人物がまだ。

どうしようかなあ・・・・・

「ただいま考え中。。。」 こんな事書いてもしょうがないんだけど・・・





荘厳司教ミサが近づいてきましたので、カトリック聖歌集を見たりしているのですが、ラテン語は格変化が多くて、単語の意味がつかみにくいし読むのも難しいですね・・・

私にとっては、カタカナが書いてあるのがありがたい。
いや、カタカナが書いてないと読む事も無理!!

「何事の書かれしとは知らねども かたじけなさに涙こぼるる。」
(ケニッチー)


「何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる。」
(西行法師)


勝手にもじってすみません・・・・・

しかし荘厳司教ミサのホームページをみて、ミサに与った方の感想を読むと、涙がこぼれたという方がおられます。

ラテン語をわかる方もおられると思いますが、「わからなくても厳かさに心をうたれる」という方も多いのではないでしょうか。

西行法師の和歌は、こころやさしい日本人の感性に満ちていて、とてもいいですね。
逆転してますがカトリックでは、ラテン語を愛する人が日本人的だったりして・・・

カトリックでありながら 「ラテン語なんて意味もわからないのに、ありがたがって変だ!」
というような事を言う人はとても傲慢だと思いますヨ。

前回、聖書について書きましたが、私が普段見ているのは、日本聖書協会が発行している新共同訳です。読み易い口語訳で一番ポピュラーな聖書だと思います。

文語の聖書はどんな感じだったのだろうかと。ふと思いました。

昔は、ラゲ訳聖書というものがあったようですね。
明治期のエミール・ラゲ神父という方が訳された聖書です。
「鹿児島ゆかりのラゲ訳聖書・・・」という言葉が検索で見つかりましたので鹿児島に宣教なさった方でしょうか?
辞書や資料が少なかったでしょうから大変なご苦労だったと思います。
以前は標準的に使用されていたようです。

このラゲ訳聖書。なんとダウンロードできるんです!
インターネットにアップいただいた方にも感謝です!

ということで早速、好きな聖句を何箇所か見てみました。

「手に犂(すき)を着けて尚(なお)後を顧みる人は、神の國に適せざる者なり」

「我に触れし者は誰ぞ」「汝の信仰汝を救へり、安んじて往け、」

いい。いい。!!!

「我は復活なり、生命なり、我を信じる人は死すとも活くべし、又活きて我を信じる人は、凡て永遠に死する事なし、汝之を信ずるか」

「我は道なり、眞理なり、生命なり、我に由らずしては父に至る者あらず」

「元始(はじめ)に御言(みことば)あり、御言神の御許(おんもと)に在り、御言は神にてありたり」

やはりズシリときますね。

プロの俳優や声優のシブい声で、この聖書朗読を聴いてみたい。

今の新共同訳はわかりやすく、決して悪くはないのですが、やはり文語の重厚さは別の趣きがある。

聖書朗読もこのラゲ訳聖書の文語でおこなったら、違った感動があるかもしれませんね。

ルカ17-9〜10
「命じられたことを果たしたからといって、主人はしもべに感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら
『わたしどもは取るに足りないしもべです。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

先週のごミサでの福音書朗読の部分です。

「わたしはとるに足らないしもべです。なすべき義務を果たしたにすぎません」という訳になっている聖書もありました。

「しなければならないことをしただけ」というセリフは、アメリカ映画などでよくでてくるようなセリフのような気がします。
サッカーのヒーローインタビューなどでも聞いたことがあったかな?
欧州や南米の選手の場合は、もしかしたら聖書を意識して話しているのかもしれませんね。

ルカ11-11
「魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇をあたえる父親がいるだろうか」というような神の愛を感じる部分は、私のような甘ちゃんには受入れ易いのですが、この ルカ17-9〜10 は正直言って戸惑いを感じます。

現実にはしなければならないことでもなかなかできていないことも多いし「ちゃんとできたらほめてもらいたい」というのも当たり前の感情。

しかし、神様から見れば命じたことはできて当たり前。


厳しい・・・・・



でも、かなり印象に残ります。
こういう箇所があるから聖書は奥深いのかもしれません。

岩下神父様の伝記のタイトルが「人間の分際」でした。

ルカ17-9〜10は人間の分際というものを思い知らされますね。

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