カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2009年11月

このシリーズ、名称が「日本100名聖堂」だったのですが、
「何で100名定員の聖堂を選出するの?」という誤解を招いていることがわかりましたので名称を変更します。「日本100名山」はおかしくないのですが、ちょっとしたことで誤解を招き易くなりますね。

選考基準も伝統的な様式の聖堂に絞ろうと思います。
新しい様式の聖堂は増やしていけますが、伝統様式の聖堂は、壊したら再現困難です。文化財を守るまじめな視点で選出していこうと思います。

ということでシリーズ改名「日本の名聖堂100選」その3です。
「日本の名聖堂100選」は伝統様式の聖堂にすることにして
「光の教会」は番外に変更。大浦天主堂が繰り上がって その3です)


大浦天主堂。 国宝に選ばれています。

ただ、建造物としての立派さだけではなく、この聖堂は「わたしのむねはあなたとおなじ。サンタマリアの御像はどこ?」という言葉と共に、別れ別れになっていたと日本のキリシタンとカトリック教会が再会した歴史的な場所でもあります。

激烈な迫害と踏絵の苦悩のなかで信仰を守り抜いたキリシタンたちが聖母マリアに出会ったときの感動と、信徒を見つけたプティジャン神父の感動を思います。

ただ難点は、観光名所になっているため騒々しいのが残念です。
贅沢な悩みですが・・・・・

一度ミサに与ってみたい聖堂です。

「フランダースの犬」は、日本人が大好きな話ですが、話の最後の部分は悲しすぎて、アメリカで映画が作られたときはハッピーエンドに変えられたそうです。

ネロ少年。最後まで困窮し苦労し続けて、大金を拾っても不義をせず、悲惨とも思える死を迎えます。
以前テレビアニメ化されたときも大好評で視聴率も大変高かったそうです。最終回を前にして「ネロとパトラッシュを死なせないで!」という投書が殺到したそうですがしかし命を引き取る終焉でした。
ただラストシーンでは7人の天使を登場させ、天に昇天する姿で終えました。
神様のもとへ旅立つシーンでなければ救いがなさすぎたからでしょう。
ラストシーンはスポンサーであるカルピス社社長でクリスチャンの土倉富士夫氏の意向があったそうです。

ただこの悲惨ともいえる最後の箇所にこそ、この話の真骨頂があります。

この話はキリスト教を強く感じさせるところがあって不幸の連打は旧約聖書のヨブ記のようだし、ネロの死はキリストの受難を想起させます。

この世の幸せとは別の天国の幸せがある。「そんな宗教的な話ばかりして!」と言われそうですが、この話は宗教がなければ救いがないんです。

先日、いつもと少し違う通勤電車に乗ったのですが、隣に座った若い女性(20代前半?)2人が、いやな会話を聞かせてくれました。

女性A
「○○くん知ってるう。彼もう仕事やめるんだって」

女性B
「どうして?」

女性A
「もうお金には困らないから働く必要がないんだって。お金なら有り余るほどあるからこれ以上いらないんだって。」

女性B
「株?いいなあ〜。うらやましい〜」

女性A
「お金に不自由しないんだったら働く必要ないよね〜。お金のために働いてるんだから・・・・」

女性B
「そうよね〜」

朝の通勤電車でまわりはみんな仕事に行く人なのに、目一杯モラルの下がるような会話をしてくれました。大きな声でわざとまわりに聞かせるように話して悪趣味な会話です。20代の若い時は変な偽悪趣味になるときありますものね。
正直なところ「うらやましいな」と思つつも、ブログのネタを考え始めたのですが、唐突ですがふと「フランダースの犬」の話が思い浮かびました。

(つづく)


昨日の投稿のカリスとパテナの話の中で、ミサと茶の湯の類似性について述べたのですが、実は、習っているわけでもなく、お茶席の体験が2回あるだけです。(すみません)
ただその内の1回がとても印象深かったので今日はその話です。

日本美術について造詣の深いH先輩に連れられて、京都嵐山の某寺院の障壁画を見る集まりに参加した時の事なのですが、そのお寺に茶室があって、障壁画見学の後に茶席に参加させていただくことになりました。

「作法を全然知らないのですけどいいんでしょうか?」

先輩「お茶なんて茶碗を見て抹茶を回し飲みするだけだから大丈夫大丈夫。今日は茶碗をお持ちの方がおられるから拝見しないと失礼になるし・・」

ところがお茶席が始まり、いざお茶碗を拝見する段となると・・・

先輩「そんなに高く持ち上げて見たらダメダメ!お茶碗はものすごく高価な場合があるから、仮に落としてもダメージのない高さで。畳から10cmぐらい。肘を太ももに当てて屈むようにして見る!」

「こうですか。」

先輩「そうそう。ただしその時に何か言わないと。」

「なんて言うんですか?」

先輩「例えば『いい景色(けしき)ですなあ〜』とか」

「いい景色ですなあ〜」

先輩「そうそう。お隣の方にお回しするときは、ちゃんと正面がわかるようにして・・・」

「正面があるんですか。同じにみえますけど・・」

先輩「正面がわからないで『いい景色ですなあ』とか言ってたのか君は!」

「・・・・・」

実際のH先輩はこんなイジワルな人ではなく優しい紳士で、お茶席での上の会話は半分創作ですが、茶碗の持ち方、正面の話は本当で、「茶の湯は奥深い!茶の湯恐るべし!」と思った強烈な体験でした。

昨日のカリスの持ち方の話も、この茶の湯体験での茶碗の持ち方の話と少しつながっています。

利休七哲だった高山右近のお手前はどんなだったのでしょうね。

直接習ってみたかったりして・・・・


早朝ミサは、人数も少なく、和室の小聖堂なので、静かな茶の湯のような雰囲気に感じる事があります。

キリシタンの時代に高山右近、蒲生氏郷など千利休の高弟たちにキリシタンが多かった話(利休七哲のうち4人がキリシタン)が印象に残っているので余計にそのように感じるのかもしれません。

このミサでは、カリス、パテナが少し変わっていて、このまえまで陶器でした。
カリスは脚がなく、お手前の茶碗のような形です。

そのカリス、パテナが、金色の普通の形のものになりました。

少し寂しい気持ちが半分。

伝統に近い形はこちらなんだという安心感が半分。

よくよく考えてみれば、御ミサの所作の中ではどうしても片手でカリスを持たなければならない所作があるので、持つ時に安定させるために脚つきのほうが良いという判断なのかもしれません。
所作を安定させるための必然性に「なるほど」があります。

茶の湯の精神性との類似性は、器ではなくやはり所作なんですね。

一見、日本文化との折り合いがついているように見える事柄でも、試行錯誤しながら慎重に見定めないといけないのだなと思いました。

ミサに和太鼓や三味線を持ち込みたいという人たちがいるそうですが、表層的な感じがします。

御ミサのなかで新しい金色のカリスが、美しくきらめいていました・・・




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