カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

2009年10月

「鹿児島のベルナルド」についての資料は少ない。
フーベルト・チースリク師の著作「世界を歩いたキリシタン」によると、聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸後、最初(もしくは2番目)に洗礼を受けた日本人ということらしい。
聖フランシスコ・ザビエルは鹿児島から平戸、山口、京都に向うが、ベルナルドも同行している。

聖フランシスコ・ザビエルがインドに帰るときに、5人の日本人が同行するが、その中にベルナルドも含まれている。

他は大友宗麟の使節の上田玄佐、「ジョアン」「アントニオ」「山口のマテオ」。

このうち上田玄佐、「ジョアン」「アントニオ」はゴアから日本に帰国する。

聖フランシスコ・ザビエルは友人のイエズス会ポルトガル管区長シモン・ロドリゲスに宛てて次のような手紙をしたためている。

「マテオとベルナルドはポルトガルとローマを見たくてインドまで私に着いてきて・・・彼らの望みは祖国に帰り、同胞にその話を聞かせる事・・・ベルナルドは私の日本滞在中に実によく面倒を見てくれ・・・我々の大切な友人であり・・・」

だが「山口のマテオ」はインドの酷暑に耐えきれず病死する。

ベルナルドはインド人の留学生とともに、ただ1人の日本人としてヨーロッパに出発する。

1553年3月のことである。

高山右近の父であるダリオ高山飛騨守友照は、宣教師に何をしたいか尋ねられたときに「この目でローマを見たい」と答えたらしい。

日本人として初めて欧州に渡ったのはこの時代のキリシタン達で、少数だがローマを見た日本人はいる。

一番最初は「鹿児島のベルナルド」という人物で、聖フランシスコザビエルから洗礼を受けた黎明期のキリシタンだが、日本人名がわからない。
欧州では最初の日本人だから「日本人ベルナルド」で名前のように覚えられてしまったのかもしれない。欧州で病没している。

天正少年使節の4人は歴史の教科書にも載っている。
あとは仙台伊達藩の使節であった支倉常長も良く知られている。
支倉常長が明治時代以前では最後の渡欧者だろう。

トマス荒木は、日本人初の欧州留学生としてローマを訪れている。
欧州ではまだ天正少年使節の記憶が残っていてトマス荒木も大変歓迎されたらしい。

有馬セミナリオで学んだペドロ岐部はトマス荒木の10年後の留学生。
昨年バチカンから福者(聖人に次ぐ存在)として列副されている。
ペドロ岐部とトマス荒木は留学生としてコレジオロマーノで学び、司祭にも叙階されて、遣唐使遣隋使にも匹敵すると思われるのに、日本で彼らを待ち受けていたのはとてつもなく過酷な運命だった。

志賀親次までキリシタン武将を書いたが、以降はキリシタンの渡欧者について書いていきたい。

桑姫社という祠があるらしい。
http://nagasaki-r.seesaa.net/category/5389381-3.html

先述の浦上淵村の庄屋 志賀家が関係する。

桑姫社は豊後(大分県)のキリシタン大名・大友宗麟(そうりん)の子義統の娘阿西(おにし)・マキゼンシャを祀ったもの、マキゼンシャは、大友家の没落(天正15年・1587)後、重臣志賀大内蔵親成はのがれ長崎に亡命、この地淵村に隠れ住んだ。のち、姫を尾崎屋敷に迎えた。

とされている。

宗麟の娘、マセンシアのことが頭をよぎったが、マセンシアではなく義統の娘。阿西御前とも呼ばれていたらしい。

志賀大内蔵親成のほうはよくわからない。
ひょっとしたら親次本人ではないのだろうか・・・

志賀親次の残像が長崎に残っているとしたら、非常に感慨深い。



浦上村淵庄屋志賀家の墓碑というものが、長崎の稲佐悟真寺後山の墓地にある。
現在の場所へは慶応2(1866)年に寺野郷(城山地区)から移されたそうである。
昭和52年3月25日長崎市指定史跡に認定されている。
http://www.geocities.jp/kohithugi/history-08.htm

19基の墓碑があるが9世親善の名が目に留まった。

親善とは親次の別名である。

同性同名かもしれないが、長崎浦上淵村の庄屋の一族の墓・・・・
長崎の浦上と聞いて、激しく心が揺さぶられる・・・・

この19基の墓には江戸後期明治初期に活躍されたロシア通詞の志賀親という人物の墓もある。明治天皇と露国アレクセイ親王の通訳も務めたらしい。
ロシア通詞志賀親はロシア正教の洗礼を受けている。

1592年より始まった文禄の役において、大友家も太閤秀吉から出兵を命じられている。黒田長政麾下の第三軍に編入され朝鮮の奥深くまで進むが明軍の大反撃の報を知り一気に敗走・・・
この敗走は親次の進言によるとされている。
親次にとってはこの異国での戦いは何の意義も持てなかったのかもしれない。
もっとも大友興廃記などでは他の人物が進言したとの異説もある。親次が活躍した事を妬んだ人物の中傷の可能性が高いという説である。こちらももっともな感じがする、

この敗走は大友家にとって大きな分水嶺となった。
太閤秀吉は「大友勘当の朱印状」という沙汰を出し、鎌倉時代より続いた大友家は豊後を召し上げられ終焉を迎える。
敗走したのは大友だけではないのに大友だけが処罰を受けたのは何故か?
結局のところ豊後一国は朝鮮出兵のための戦費として当てられたのである。
大友義統の人物を見限っていた秀吉にとってはどのみち召し上げるものであり、早いか遅いかの違いだった。

大友義統のその後については、当方のブログの「大友吉統編」で既に書いた。

志賀親次はいったん浪人となるが、福島正則、小早川秀秋、細川忠興につかえたとの記録がある。
その後は不明である。

その後の親次については誰も知らない・・・・・・・・・

↑このページのトップヘ