カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2009年09月

親次は敵方である島津義弘からも「天正の楠木正成」と評された。
わずか20才の若者が率いる1000名が、九州では無敵の島津の大軍に対して何故勝てたのか?
岡城が難攻不落であったとか、銃の使いかたや地形を熟知した急襲戦術が巧みだったとか、いろいろあるようだが、私が感心するのはモラルを維持した人心掌握の部分である。
相手方が少なくなったときでも5倍の兵力に包囲される状況では、逃亡や寝返りが絶えないと思うのだが、記録を辿る限りでは堂々とした戦いぶりで、一致結束して戦い抜いぬいたのは疑う余地がない。

親次がキリシタンになった後、家臣や領民が3000名程、続いてキリシタンになったとの記録がある。
親次がキリシタンになったときの一途さを知る家臣達の20才の若者を支えようとする親心なのか?
天草四郎のようなカリスマ性があったのか?
結束の強さにキリシタンとしての運命を共にする強さを感じる。

親次は岡城周辺の城を奪還する際、島津方の武将として出陣していたキリシタン武将のドン・ジョアン天草久種を、同じキリシタンということで助けている。本ブログの結城弥平次と三木判太夫の話を思い起こさせる。
(この際、天草久種は「お気持ちはありがたくともキリシタンということで自分だけ助かる訳にはいかない。他の天草衆と命を共にしたい」と申し出たのだが、親次は「ならば、皆お助けしよう」とあっさり全員を許したとの記録がある。)

余談だが、後に、親次の功績を妬む大友義統は国主でありながら、祇園祭りの参拝を口実に親次を呼び出し騙し討ちをしようとするが、その際に謀略を察知した家臣達が、常に親次の周りを離れず義統の陰謀をくじいたという。家臣達の親次に対する気持ちの近さと強さを感じるエピソードである。


豊後の奥深くまで進攻した島津軍は総勢3万とも3万7000とも言われ、その圧倒的な兵力をまえに豊後の国衆はことごとく恭順し、志賀親次の籠る岡城周辺においても有力な国衆である志賀道益入田宗和らが島津に内通している。親次にとって志賀道益は父、入田宗和は叔父である。

天正14年(1586年)10月岡城を攻める島津軍は島津義弘を主将に先鋒は「鬼武蔵」の異名で恐れられた勇将新納忠元が受け持った。
岡城を守る城兵は約1000。親次は弱冠20才。(18才との説もあるが家督相続の後だとすると年が合わない。ともあれまだ若輩である)

実の父親が内通し圧倒的な兵力に包囲される中、降参してもやむなしという状況なのだが、あえて親次は無謀とも思える抵抗の道を選ぶ。
岡城の南の滑瀬橋が主戦場になったが、ここに弓鉄砲を集中し侵入を阻む。島津軍は海抜325m台地にある天然の要塞を攻めあぐねた。

島津義弘はいったん兵を引き稲富新助率いる兵5千に監視をまかせるが、この稲富新助が功を急いで急襲し逆に反撃に合い大損害を受ける。
天正15年(1587年)2月、再び島津軍は1万5000の軍勢をもって岡城周辺に集結し決戦を挑むのだが親次は矢文で岡城の支城である鬼ケ城を決戦の場として促し、島津も応える。この鬼ケ城で親次は島津軍を撃破して圧倒的な勝利を治めた。
その後島津軍は岡城を攻めることはなく、親次は周辺の城を次々に奪還した。

キリシタン信仰とは別の、武将としての大成果だが、この事が、後に思わぬ場面で彼を救う事に成る。

プロフのほうのメンテナンスができてなく、いただいていた拍手コメントに気づきませんでした。どうも申しわけありません。コメントどうもありがとうございました。

471c3b7e.png名無しさんのお尋ねの「耳川は美々津ですか?」の件。
古戦場の場所は、高城の位置からの推定ですが
「高城は切原川と高城川(現小丸川)が交わるあたりの台地上にあり・・」とありますので、むしろ高鍋近郊のようです。耳川の戦いと言われますからまぎらわしいですね。

えみゅーさん
「歴史は知れば知る程おもしろい。」本当にそうですね。
教科書やNHKの大河ドラマは、どうしてもメジャーな話に偏りがちですけど、スポットがあたっていない地方にも、それぞれに心に響く歴史があることに感動しています。どうぞこれからも応援して下さい。

記事の下の Comments のほうでも、コメントいただけますので、よろしければそちらもご利用くださいね。

コメントをいただけると、やっぱりやる気が起きます!
ありがたいです。
これからもよろしくお願いします。

ブログも、次々に新しい情報が入るものだから、当初思い描いた展開どうりになかなか進まず、寄り道したり、立ち止まったり。

今回も寄り道。「らしさ」について。

価値観が多様化するなか1人1人の多様性を認めようという時代の流れなのだけれども、反面、集合体としての「らしさ」があるということも、私は大事な事のように感じている。

「男らしく」「女らしく」「大人らしく」「日本人らしく」「社会人らしく」「九州の人らしく」「○○会社の人らしく」「○○家の人らしく」などなど、いろいろあるわけだけれども
過去から受継がれているイメージというものがプラスのイメージを持つ場合は「らしく」見えることは安心感、安定感、信頼感につながっている。

そして、社会においては1人では存在しえないから、「自分らしさ」というものも集合体の一員としての「らしさ」と密接に関わりがあり、その事は、その一員としての「誇り」や「帰属意識」「モラル」にも大きく影響している。

この集合体の「らしさ」が変化し、ゆらいでいくとややこしい。
決して変化することを否定するわけではないが、変化の仕方というものが過去からの継続性というもの寸断して変わってしまうと、イメージが拡散して「らしさ」を失ってしまう。「帰属意識」や「モラル」を失う原因となる。宗教のようなメンタルなものは殊更であろう。

「カトリックらしさ」とは何であろう?
私の中でのイメージはあるが、私とは異なり伝統とはかけ離れた新しいイメージをつくろうとする人が教会に少なからずおり、現在のカトリック教会は「らしさ」が崩れている。

ローマを中心に2000年の歴史の中で形作られたもの、先人達(キリシタン)が受け入れ守ったものを受継いで守らなければいけない。
伝統によって形づくられたカトリックらしさを失うわけにはいかない。

国崩しについて書いた際、「柴田リイノ(下の名前不明)という勇将が討死した」と書いたが、「柴田リイノ」の最後についてホームページで詳しく書かれている方が見つかった。

フロイスが記した「柴田リイノ」は柴田長門入道礼能のことで、息子の柴田玄蕃允と共に壮絶な最後を遂げたことがわかった。

臼杵城包囲の際、宗麟が「薩摩両台の手引きに 柴田紹安が向うと聞く、柴田長門入道礼能父子は、同姓の親類なれば、薩摩方へ志を寄せないか」ともらしてしまい、それを人づてに聞いた礼能は、身の証を立てるために、大門を開けさせて島津の陣にいる柴田紹安と対面対決しようとする。

両陣の将兵の見守る中、大声でかけあうが対面かなわず、「紹安への体面は久方ぶりに候。よって一品送り申さんと、種子島小筒一挺持参いたしたが、体面なければ残念なる事かな。是非なく皆々にお見せ申さん」と玄蕃允と共に一瞬にして薩摩勢の騎馬武者二騎を撃つが、島津勢の一斉射撃の反撃を受けて絶命する。

柴田礼能と玄蕃允父子の討死を知り、自らの失言によって忠臣を失った宗麟は慟哭したという。

後に薩摩方に寝返っていた柴田紹安も恥じ、大友側に帰陣しようとして島津の将兵に討たれた。

NHKの大河ドラマにはおそらくならない一地方の戦国史なのだが、ドラマティックな話である。

その最後を克明に記述されている戸次鑑連の末裔の方のホームページ
http://www1.bbiq.jp/hukobekki/sibataoyako/sibataoyako.html
ご紹介させていただく。
志の高い人物の最後を、簡単な一文ではなく詳しく知る事ができたことに感謝したい。
つたない私のブログよりも、はるかに文章が格調高く感動を受けた。
さらにご興味をお持ちの方は、上記のアドレスを尋ねていただけたら幸いである。


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