カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

2009年07月

大友宗麟といえば、高山右近同様にキリシタン武将としては代表格とされる人物であろう。

しかしながら大友宗麟は、その正室が神官の娘であったため夫婦間での宗教的相克に生涯苦しんだ。正室の実家が大友家臣団の有力者で家老であるということもあって、その対立の構図が親子関係主従関係においても波及し常に心が休まる事がなかった。

長男吉統(義統)との関係も、宗教において複雑な対立競争関係のような感情のもつれがあり、前述したが吉統(義統)は深くキリシタンを信心したかと思うと家臣の圧力を受けすぐ棄教するなど立ち位置が定まらない。

さらにややこしいことに次男親家はキリシタンになるも、その真意は兄に対する対抗心であり、荒々しく激しい性格ゆえに神社仏閣を焼き払うなど次々に問題を引き起こす。

宗麟のキリシタンに対する興味も「せまい豊後だけを見てどうする。世の流れや世界に目を向けよ」という開明の心があったのだが、家臣のなかでは、親家のトラブルを見て「キリシタンは災いの種」と思うものが少なくなかった。

大友家は歴史ある九州の名門ではあったが、同紋衆などという家臣団の力が強く、独裁的な立場ではなかったため、反キリシタン派(保守派、ベテラン)対 キリシタン派(開明派、若者)という明治維新のときのような対立の構図が、常に不安定さを生む。

宗麟のキリシタンに対する信仰の置き所が、(例えば無鹿など)どこか現実世界を離れ、理想を追いかけるようなところがあるのは、現実世界での悩みから離れられなかったためであろう。

高山右近の場合は、父の高山飛騨守の指導力もあって一族郎党がキリシタンという環境にあり、家族や家臣との間での宗教的な悩みはなかった。
高山右近が現実世界のなかでその信仰を純化させていったのとは対照的である。

けっこう話が長くなってしまった。
無鹿の話まで書けなかった・・・・

もう少し引っ張って次回につづく。






b53a0d4f.jpg 構えすぎると、ついつい更新に間が空いてしまうので本日は予告編。

無鹿とは何か?

大友宗麟が、府内城下の宣教師のもとに訪れたとき、宣教師達は楽器が弾けるようになった少年達に演奏をさせ、もてなした。
いままでに聞いた事もない美しい音曲の調べに感動した宗麟は尋ねる。

「パードレ、この音曲の調べは、御国では何と申されるのか?」

「ムジカでございます。ムジカ(ミュージック)と申します」

「ムジカ・・・」

無鹿やがて、島津からの圧迫を受ける伊東家支援の名目のもとに、豊後から日向に向け宗麟は軍を進め、その時に理想都市としての新しい街の建設を試みるが、その街の名が「無鹿(ムジカ)」・・・

無鹿の地名は、今も宮崎県延岡市近郊に現存する。

詳しくは次回!

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再び本編にもどって 今回は大友義統。あるいは吉統。
大友宗麟を書く前に大友義統なのは変? 大物は後に残しておきます。

大友義統は悲しい。
あっちに行ったり、こっちに来たり。立ち位置が定まらない。

熱心にキリスト教を受け入れたとおもいきや、家臣に強く反対されては遠ざかり、九州制圧に訪れたキリシタン武将の黒田官兵衛孝高から

「義統殿の御父上は熱心な信徒と承るが何故受洗なさらぬのか!」
と問いただされ、あわてて受洗する。
宣教師たちもしらけていたらしい。

秀吉からも父宗麟や配下のキリシタン武将志賀親次と比べられ、
キリシタン禁教令後、秀吉に謁見した際

「ただちにキリシタンを奉じる志賀親次を誅殺いたします」
と言えば秀吉から
「そちのような愚か者に、親次が討てると思うてか!」
と叱責され・・・・

全く評価されてない・・・・おこられてばっかり。

関ヶ原の時、毛利輝元に「豊後を切り取りなされ。大友家を再興されよ」とそそのかされ豊後に攻め入るも、黒田官兵衛に歯が立たない。

晩年は罪人として、豊後からはるかに遠い出羽、常陸に流される。孤独で悲惨だった。

「わが罪、何人より重ければ尋常なる苦行も行わざるべからず」

と述べ「粗悪なる衣をまとい。縄をもって身を縛し断食を行い、杖をもって自らを罰したまえばこれがために衰弱し・・・」という状況だった。

幽閉5年、おそらくキリストの受難を自らの境遇を通して真に理解し、キリシタンとして48才でその生命を終えた。

歴史に翻弄された印象に残る人物である。

遠藤周作の「王の挽歌」が詳しい。

カトリックの典礼はベースがラテン語になるのですが、キリシタンの時代では今よりも顕著で、日常的なお祈りでも当初はラテン語だったようです。
フロイスの日本史でも「・・その地区での布教は、順調に進み、離れて3ヶ月後に戻ってみたら、子供達が『パーテルノステル』と『アヴェマリア』を流暢に唱えているのに驚いた。・・・」というようなことが書かれていました。
「どちりいな・きりしたん」1591年版「ドチリナ・キリシタン」1600年版(ヴァチカン図書館に現存するらしい)が国内で印刷されて国語化も進みラテン語日本語の2本立てになっていったようですが日本国内で印刷されたという事にも驚きます。

『アヴェマリア グラツイア プレナ ドミヌス テクム ベネディクタトウ イン ムリエリブス・・・」

『がらさみちみち玉ふまりあに御れいをなし奉る 御あるじは御みとともにましますにょにん(女人)の中にをひてわきて御くわほう(果報)いみしきなり・・・・』

どちらも味わい深いです。


面白かったのが、桃山時代では、秀吉自身がポルトガル風の装いを好んでいたこともあってか、キリシタンでなくても流行りとして、ロザリオを身につけたり『パーテルノステル』と『アヴェマリア』も唱えながら路を歩くなんてこともあったらしく、不思議な気持ちになります。

現在のカトリック教会では、「お祈りは呪文じゃない」ということのようで、非常に平易な口語調のお祈りになっていますが
わたしは「わかりやすけりゃいい」とも思えないのです。

唱えることの心地よさのあまりキリシタンでもないくせにブツブツとラテン語のお祈りを唱えていた当時の若者を想像するとそれだけで楽しくなります。

室町〜江戸期のキリシタンは、日本のカトリック教会の先人達であるわけで、特に殉教者のキリシタンに対し、現代の信徒が特別な崇敬の思いを持っているのは誰しも共通なのではありますが、昨今のカトリック教会でキリシタンについて語られる際に(私にとって)少し気になるフレーズがでてくることがあります。

「単に英雄として捉えるのではなく・・・」「現代に生きる我々の問題として、政教分離、信教の自由、憲法、教育基本法を・・・」というようなフレーズ。

確かに大事な事で信教の自由も憲法で守られてはいるのだけど、キリシタンの殉教の話は、己の信じるものに殉じる信仰の深さや勇気というものに対して、そのメッセージを心の問題として我々がどう受けとめているのかという話であって、憲法がどうとかというのとは感じ方、立ち位置が違うと私は思っています。

英雄として捉えるのが何故悪いんだろうか? 殉教と訳される「martyria」というギリシア語は「証し」という意味だそうですが
信仰の実践の証人として、殉教者を崇敬する、英雄として讃える気持ちというのは自然な感情ではなかろうか?
政治的な視点を持つという事のほうがノイジーな感じがします。

カトリックではない人にはわかりにくいと思うけど、もともとカトリックはノンポリで、むしろ共産主義に対する警戒から保守的な人が多かった。
どういうわけかわからないのだけど、いつのまにか社民党みたいな人が多くなってしまいました。

わたしは「カトリック=政治的左派」というイメージが作られていくことを危惧してます。

キリシタンの時代という、日本のカトリックの歴史の原点に立ち帰りながら、自問自答し、自分の立ち位置をよりクリアにしたい。
一寸の虫にも五分の魂。インターネットでは虫けらみたいなブログではありますが、己の立ち位置に信念を持ちつつ、一石を投じたいという気持ち。 
がんばれる限りがんばります!

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