「鹿児島のベルナルド」についての資料は少ない。
フーベルト・チースリク師の著作「世界を歩いたキリシタン」によると、聖フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸後、最初(もしくは2番目)に洗礼を受けた日本人ということらしい。
聖フランシスコ・ザビエルは鹿児島から平戸、山口、京都に向うが、ベルナルドも同行している。

聖フランシスコ・ザビエルがインドに帰るときに、5人の日本人が同行するが、その中にベルナルドも含まれている。

他は大友宗麟の使節の上田玄佐、「ジョアン」「アントニオ」「山口のマテオ」。

このうち上田玄佐、「ジョアン」「アントニオ」はゴアから日本に帰国する。

聖フランシスコ・ザビエルは友人のイエズス会ポルトガル管区長シモン・ロドリゲスに宛てて次のような手紙をしたためている。

「マテオとベルナルドはポルトガルとローマを見たくてインドまで私に着いてきて・・・彼らの望みは祖国に帰り、同胞にその話を聞かせる事・・・ベルナルドは私の日本滞在中に実によく面倒を見てくれ・・・我々の大切な友人であり・・・」

だが「山口のマテオ」はインドの酷暑に耐えきれず病死する。

ベルナルドはインド人の留学生とともに、ただ1人の日本人としてヨーロッパに出発する。

1553年3月のことである。