1592年より始まった文禄の役において、大友家も太閤秀吉から出兵を命じられている。黒田長政麾下の第三軍に編入され朝鮮の奥深くまで進むが明軍の大反撃の報を知り一気に敗走・・・
この敗走は親次の進言によるとされている。
親次にとってはこの異国での戦いは何の意義も持てなかったのかもしれない。
もっとも大友興廃記などでは他の人物が進言したとの異説もある。親次が活躍した事を妬んだ人物の中傷の可能性が高いという説である。こちらももっともな感じがする、

この敗走は大友家にとって大きな分水嶺となった。
太閤秀吉は「大友勘当の朱印状」という沙汰を出し、鎌倉時代より続いた大友家は豊後を召し上げられ終焉を迎える。
敗走したのは大友だけではないのに大友だけが処罰を受けたのは何故か?
結局のところ豊後一国は朝鮮出兵のための戦費として当てられたのである。
大友義統の人物を見限っていた秀吉にとってはどのみち召し上げるものであり、早いか遅いかの違いだった。

大友義統のその後については、当方のブログの「大友吉統編」で既に書いた。

志賀親次はいったん浪人となるが、福島正則、小早川秀秋、細川忠興につかえたとの記録がある。
その後は不明である。

その後の親次については誰も知らない・・・・・・・・・