豊臣側の圧倒的兵力の前に当初は抵抗を続けた島津もついに恭順し、九州では太閤に歯向かえるものはいなくなった。伴天連追放令が発令された中、絶対権力者である太閤がキリシタンを棄てよと言えば言われるままに棄てるかか処罰されるか・・・
親次にとっては大友義統の嫡子塩法師丸の後見としての上洛だが、太閤に謁見すれば間違いなく覚悟を決めなければならない状況である。
そのうえあの田原紹忍もまるで親次を監視するかのごとく随行に加わる。
絶体絶命のなかでの太閤への謁見。

しかし太閤は親次のキリシタン信仰については驚く事に全く不問にし、それどころか岡城での親次の勝利について大いに褒めて塩法師丸と親次のみを昼餐の場に招くというもてなしで報いた。
田原紹忍が千利休に「それがしは供衆では一番の年寄にござりますれば」と抗議するが「すべて太閤殿下のご指図にござります」と一蹴される。
役に立つものはとことん使うという織田信長仕込みの秀吉の現実的な人材活用術である。役立たずとされた田原紹忍の屈辱は義統の屈辱となった。

親次の信仰は親次を見捨てず、激闘の上での勝利が再び彼を救った。