親次は敵方である島津義弘からも「天正の楠木正成」と評された。
わずか20才の若者が率いる1000名が、九州では無敵の島津の大軍に対して何故勝てたのか?
岡城が難攻不落であったとか、銃の使いかたや地形を熟知した急襲戦術が巧みだったとか、いろいろあるようだが、私が感心するのはモラルを維持した人心掌握の部分である。
相手方が少なくなったときでも5倍の兵力に包囲される状況では、逃亡や寝返りが絶えないと思うのだが、記録を辿る限りでは堂々とした戦いぶりで、一致結束して戦い抜いぬいたのは疑う余地がない。

親次がキリシタンになった後、家臣や領民が3000名程、続いてキリシタンになったとの記録がある。
親次がキリシタンになったときの一途さを知る家臣達の20才の若者を支えようとする親心なのか?
天草四郎のようなカリスマ性があったのか?
結束の強さにキリシタンとしての運命を共にする強さを感じる。

親次は岡城周辺の城を奪還する際、島津方の武将として出陣していたキリシタン武将のドン・ジョアン天草久種を、同じキリシタンということで助けている。本ブログの結城弥平次と三木判太夫の話を思い起こさせる。
(この際、天草久種は「お気持ちはありがたくともキリシタンということで自分だけ助かる訳にはいかない。他の天草衆と命を共にしたい」と申し出たのだが、親次は「ならば、皆お助けしよう」とあっさり全員を許したとの記録がある。)

余談だが、後に、親次の功績を妬む大友義統は国主でありながら、祇園祭りの参拝を口実に親次を呼び出し騙し討ちをしようとするが、その際に謀略を察知した家臣達が、常に親次の周りを離れず義統の陰謀をくじいたという。家臣達の親次に対する気持ちの近さと強さを感じるエピソードである。