カトリの日記

日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いてるブログ。
・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。
・現在の日本のカトリック教会は「伝統の断絶」「偏った政治指向」があると感じています。
・特別形式ミサ(伝統様式のラテン語ミサ/トリエント・ミサ)の実施に参加しており、不定期な開催の場合は、その告知を行います。

日本ではキリスト教の信者は総人口の1%に満たないので、宗教的には「キリスト教とはご縁がない」人がかなり多いと常々思っている。

それでも医療や教育の現場としてキリスト教系の病院、学校というのはそこそこあり、また結婚式場やホテルでのチャペル挙式というのもけっこうあるから、全く接点がないこともないだろう。

ただ「ホテルのチャペル挙式で感動したのが入門の動機」という人が求道者として教会に来るという話はあまり聞かない。
出合いがあったとしても、そこから一歩踏み込む人は少ないのかもしれない。

もっとも情報に溢れる現代社会においては、ちょっとした関心があれば、たやすく情報は手に入れることは可能で、キリスト教に近づく最初の一歩が書籍からとするならば、キリスト教と向き合おうという人が、最初に手に取る本が、どういう本かは気になるところだ。

少し前に「ふしぎなキリスト教」という本がベストセラーになった。
この本は、クリスチャンとノンクリスチャンの2人の社会学者の対談で、社会学、哲学の視点で語られている。
知的な好奇心を刺激する本だけれども、個人的な悩みに対する回答や人生の目的に対する探究にはなりにくい気もするから、入門の動機になるかは私はよくわからない。

こういう知識と理解を深めるための「教養としてのキリスト教入門」的な本は比較的多く良書もあるが、もう少し人生における悩みに答える本があってもいいと思う。

そんなことを思いながらいろいろネットで検索してたら、ズバリ「キリスト教は役に立つか」という本があって、ちょっとビックリするこの大胆な書名には、何か期待させてくれるものを感じた。

来住 英俊という人の本だが、 この方は、「『ふしぎなキリスト教』と対話する」という本も書かれていて、カトリックの修道会、御受難会の神父だった。

私は、ボンクリ(赤ん坊の時に洗礼)なので、自分から求めて入信したわけではないのだが、「もしキリスト教との出合いがこの本だったらどうだっただろう?」なんてことをつい考えた。

いわば「キリスト教入門の前の入門書」という本だと思うけれども、こういう本は新たな出合いを期待するようなワクワク感がある。


日本における福音宣教に於いては、「キリスト教入門の前の入門書」というのは、とても大切な本のような気がする。

いま、上野の東京都美術館で「バベルの塔」展をしているらしい。

http://babel2017.jp/
バベル
「バベルの塔」の絵は、ブリューゲルの絵のようだ。

描かれている人間のサイズとの対比で見れば、ピラミッドに勝るとも劣らない超巨大建造物で、スケールの大きさに驚く。

見た目は、ローマのコロッセオが縦に伸びて塔になっているような感じもする。

今も昔も、塔の存在はランドマークとして多くの人の興味をそそるからか、この絵画展も、けっこう入場者が多いらしい。
東京での展示会は7月2日までだけれども、引き続き7月18日から大阪でも開かれるので、大阪で見に行こうと思っている。

バベルの塔の話では、神様は人間の傲慢さを思い知らせるために人間の言葉を増やして意思疎通を困難にした。

現代では、言葉の壁については、情報化や科学技術の進歩のなかで少しづつ乗り越えていっているように思うけれども、社会的価値観というか物事の考え方については逆に多様化が進んで、共感能力が低下しているようにも感じる。

現代における人間の傲慢さのシンボルとしての「バベルの塔」は、建築物としての塔の姿というよりは、「倫理的な問題をはらんだ生命科学の進歩」のようなものなのかな?とも思った。

ブリューゲルの「バベルの塔」の絵は、建築中の未完成の状態で描かれているけれども、決して完成することがないというメッセージを発しているようで面白い。

「バベルの塔」展では、「聖クリストファーの川渡し」をテーマにした、ヒエロニムス・ボスの「聖クリストフォロス」も同時公開される。

テーマ的に好きなこともあるけれども、この絵も、なかなかいい感じの味のある絵なので、ぜひ実物を見てみたい。
800px-Hieronymus_Bosch_085
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hieronymus_Bosch_085.jpg#/media/File:Hieronymus_Bosch_085.jpg


最近、週末の土曜日に「天才!志村どうぶつ園」という番組を見ている。

10年以上続いている長寿番組なので、以前もチラッと見たことはあったかもしれないけれども、ほとんど興味が湧かなかったのは「どうせ品種が良く血統書などが整ったペットショップに並ぶような犬猫の紹介番組だろう」と思いこんでしまっていたからかもしれない。

ところがたまたま偶然に、この番組をじっくり見たら、そういう品種紹介の話以上に、行政で殺処分される運命になったペットの救済活動にも目線を向けた番組制作をしていて、番組内容について全く誤解していたことがわかった。 

スポンサーあっての民放にも関わらず(仮に不利益となる業種があったとしても)社会的な問題に対する視点を失わずに番組制作していることに好感を持つとともに、先入観を持っていたことを申し訳なく思った。

殺処分されるペットの数というのは、 年間で10万匹を超えるらしい。

飼えなくなったペットや野良犬野良猫は、保健所を経由して各地の動物愛護センターに送られるが、長期の収容はできないため、一週間程の保護期間の後は殺処分される。 

しかしそういう動物たちをセンターから引取って、新しい飼い主に斡旋する団体(や個人)も存在している。
 
番組では、殺処分をギリギリ逃れた野良の仔犬を、人間に慣れさせるために、番組のどうぶつ園園長である志村さんが寄り添って育てるコーナーがある。

野良犬でしかも仔犬の場合は、想像する以上に人間に対し警戒心が強くて痛々しいほどに怯えている。

そんな
野良犬に対し、志村さんは、穏やかに優しく声をかけ、愛情深く撫で、時にはじっと忍耐強く反応 を待つ。

志村さんの、あの独特のトボけた雰囲気で優しく動物と接する感じがいい。

ポチと名付けられた野良犬が、少しづつ志村園長に慣れ、警戒心を解いて活き活きとしてくる様を「番組を通じて出演者や視聴者が観る」というそれだけの話と言えばそれだけの話だが、このいのちと魂の救済のプロセスに感動がある。

創られた感動の押しつけではない。

偽ることができない動物だから、これは脚色のない真実のドキュメントで、視聴者は愛による救いの実現を目の当たりにして、やはり心が動き感動する

世界には、人間でありながら、ポチ同様の運命におかれる人がいるということや、キリスト教的には御父の慈しみを想うということも出来ないこともない。

いろいろなことに想いが拡がり、いろいろな想いとともに余韻が残る。

視聴者が、志村園長の動物への接し方に共感するのは、ポチのような哀れな存在に対して「どうしてもほっとけない」というような感覚が呼び醒まされるからなのかもしれない。

この「どうしてもほっとけない」という感覚は、何処から来るのか?

以前、聖書の創世記第1章の「神はご自分にかたどって人間を創りだされた」という箇所の解説をしてもらうなかで「『かたどり』『似姿』の意味というのは肉体ということではなく『神の存在は愛』だから『愛を知る存在』という意味ではないか?」という話を聞いたことがあった。

「どうしてもほっとけない」という感覚が、もともと人間に備わっているものならば、この「神の似姿」の話は、納得できるような感じがした。

↑このページのトップヘ