カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

ローマを訪れた司祭として期待とともに日本に送り込まれたトマス荒木は、その棄教によって、奉行所側の人間としてキリシタンと接する。

司祭が転んだということの影響は大きかった。
キリシタンからは転び伴天連のペテロという綽名がつけられた。

奉行所側からもラテン語を流暢に話しローマまで行った荒木に期待がかかった。

キリシタンが捕まれば、すぐに駆り出される。
キリシタンからの重圧から解放されたが、奉行所の役人から「キリシタンを説得して棄教させる役目」に対して今度は重圧がかかったのである。

それ以後、カトリック側の文献にはほとんど登場しない。わずかに残る資料として、捕まってから18年後の1637年に、聖ドミニコ会のミカエル・オザラザ神父と奉行所の白州で対峙した記録が残る。ラテン語で話しかける荒木に対し、彼の話が終わるまで黙っていたオザラザ神父は「汝のラテン語は善し。されど信仰は悪し。汝の留学は無駄であった。」と叱責した。
いたたまれなくなった彼はその場を立ち去ったという。
オザラザ神父は共に捕まった宣教師二人と共にすさまじい水責めを受け殉教した。
文献は「日本人背教徒、ヨーロッパに留学し各地で歓迎され、ために意驕る」と締めくくられている。

しかし今の世ならば、トマス荒木とて棄教することもなく、1人の司祭としてその人生を全う出来たはずである。
彼を非難する勇気を私は持てない。
転んでからは、迫害が厳しければ厳しいほど、あるいは殉教がおきるたびに良心の呵責に苦しんだのではないだろうか?

カトリック側の文献には、ほとんど載らないトマス荒木の生涯も受難の生涯であった。

ただ非難はできなくとも肯定はできない。
重くて苦いものが漂い続ける・・・・・
彼の没年は結局わからない。




天正少年使節が日本に戻ったときは、秀吉の伴天連追放令の最中ではあったが、同行するヴァリアーノ巡察師はインド副王の使節の立場であったし秀吉自身が南蛮貿易の必要性を再び感じていた時期でもあったので大変な歓迎を受けた。

しかしトマス荒木の帰国時には、すでに徳川幕府に変わっており彼を迎える環境は一変している。
既に教会は取り壊され、穴倉などにも籠りながら信徒を励まし細々と宣教を続ける状態。
ローマで見た華やかな世界の対極にある、薄暗い空間・・・

トマス荒木の潜伏は続いたが帰国後5年、ついに奉行所の役人に踏み込まれ終焉する。

連行された長崎奉行所で一度は棄教を拒絶するが、拷問が始まると、すぐに棄教。
その一瞬。ラテン語の勉学にいそしんだ日々も、ローマでの荘厳な司祭叙階式も華やかな留学生活の日々も、くいしばって耐えた潜伏の日々も全ては無となった・・・・

キリシタンの渡欧者を時系列で整理すると、
ベルナルド→天正少年使節→トマス荒木→支倉常長→ペドロ岐部の順になる。欧州で病没したベルナルドを除いては日本への帰国を果たしているが、いずれも過酷な運命をむかえている。

トマス荒木に関してはベルナルド同様極めて情報が少ない。
出身は九州の可能性。
渡欧は1605年前後と見られるが確かではない。欧州への経路もわからない。ただおそらくマカオ→ゴアは経由したと思われる。ローマへ留学する人物として選出されたのだから、秀才だったのだろう。
天正少年使節の渡欧から10年ほど経過してはいたが、ローマではまだその頃の熱狂の記憶が残っていて、トマス荒木も温かく迎え入れられたらしい。
後に聖人となるロベルト・ベラミーノ枢機卿から大事にされていたとの記録がある。

その後トマス荒木の記録は1614年のマカオに飛ぶが、当時の日本は徳川幕府に移り、秀吉以上の厳しい禁教令の時代に突入していた。

高山右近もマニラに追放された頃である。

巡察師バリヤーノもすでにこの世にはいなかったが、遺言でトマス荒木が日本に戻るようにと残してあった。
禁教令下の日本では外国人司祭では人目につくため、日本人司祭が求められていたのである。
マカオでも、ローマに留学した者として日本への宣教を期待をされていた。
おそらく望郷の念からではなく、強い期待感を背負わされて重い気持ちでキリシタン弾圧の日本への帰国への旅路についたのではないだろうか・・・

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