カトリの日記

・日々の雑感とともに、主にカトリック教会について書いているブログです。

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・キリシタンの時代から現代までの「カトリックの日本人」や「伝統的典礼」「教会建築」「教会音楽」 「宗教美術」など興味関心はいろいろ。

FMラジオを聴いていたら「パリタクシー」というフランス映画の映画短評があって、トークの内容にも惹き込まれてどうしても観たくなった。

先日、アメリカ映画の「ドライビングミスデイジー」をテレビ録画で観て感動したところだったので「運転手と乗客」というストーリー設定になっている映画は、やはりちょっと気になる。

大阪か京都の街中まで行かないと上映ってないので、ちょっと行くのが手間だったが、観たい気持ちが上回った。

ストーリーは、一言で言えば「パリ郊外に住む一人暮らしの92歳の老婆が施設に入所することになり、その入所の日に、タクシーで人生を過ごしたパリの思い出の場所を寄り道しながら巡っていく」という話。

回想場面を除いたら、ほとんどが老婆とタクシー運転手の会話場面になるので、この2人の演技力がキモで、そこで魅せられる映画だった。

タクシー運転手シャルルの人物像は、少し粗野で無愛想。
「金無し、休み無し、運転手なのに免停寸前」という崖っぷちの状態で、いつもイライラ状態。
生活臭い苦悩が切実で、心に余裕が失われている状態が痛々しい。

遠回りになる老婆マドレーヌの寄り道の要求にも、面倒臭さそうな表情を示していたのが、マドレーヌの思い出の場所に立ち寄り、そして話を聞かされる中で、心に変化が起きる。

老婆の思い出話といってもロマンティクな話ばかりではない。
残酷で悲惨ともいえる驚愕の体験が回想されていく。

マドレーヌの体験に心が揺らぎ寄り添う気持ちが膨らむなか、また会話によって家族への愛情を引き出されていくなかで、表情が徐々に変わっていく演技がグッとくるというか、とにかく上手かった!

なんでもキリスト教的文脈で受け止めなくてもいいのだが、そもそも「運転手と乗客」という「旅に寄り添う同伴者」の設定というのが「エマオへの旅路」や「キレネのシモン」の話に想いを重ねることになる。
今回の映画では、「最後に食卓を共にする」という事についても、心の交わりによる絆の深さの表現として、非常に象徴的なものを感じた。

福音書の内容を、現代社会の私たちの生活の中で理解するということにおいて、今回の映画も含めた良質のヒューマンドラマは、良い手引書として捉えることができるように感じる。

「パリタクシー」 良作である。

多くの人にお勧めしたい。


下記のベネディクト16世の講話についての拙ブログの記事は、最初は2017年にアップしていた。

すでに何回か更新しているが、復活節第二主日「神のいつくしみの主日」にふりかえると、噛めば噛むほどなんとか・・・というぐあいに味のある話なので、しつこいけれどもまた更新し直したい。

復活というしるしに対して「信じる・信じない」「見える・見てない」「気づく・気づかない」「わかる・わからない」ということを考えさせてくれる話になっていて「エマオへの道」の話も併せて思い起こすと「復活した主キリストを見れているのか?気づいているのか?わかっているのか?」という問いかけになっている。

これからもこの話を、主の復活に意識を向ける「動機づけ、カンフル剤」として、大切に持ち続けていきたいと思っている。(2023 / 4 / 16 追記)


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教会の起源をテーマにした「使徒たちについて」のベネディクト16世一般謁見講話の話を続けたい。
ベネディクト16世は、聖書の内容をながい教会の歴史のなかで、その時々の先人達がどのように受け止めてきたかを例示し話されるので、知らなかったことを知ることも多くとても刺激になる。

最後の晩餐に引き続いて、復活した主イエズスとトマスとの対話について話されている。
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【以下引用 】
(前略 )
この出来事は復活の八日後に起こりました。
最初、トマスは、イエスが自分のいないときに現れたことを信じずに、こういいました。

「あのかたの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(ヨハネ20.25)

深く考えると、このことばには次の確信が示されています。すなわち、わたしたちはイエスのその顔によってではなく、傷によって知るのだということです。

トマスは、イエスがどのようなかたであるかを示すしるしは、何よりもその傷であると考えました。

この傷のうちに、イエスがどれほどわたしたちを愛してくださったかが現されたからです。
使徒トマスは、この事を見誤ることがありませんでした。

ご存じのように、八日の後、イエスは再び弟子たちに現れました。

今回はトマスもそこにいました。

そしてイエスはトマスに呼びかけました。

「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20.27)

トマスは、新約聖書の中でもっともすばらしい信仰告白をもって、これに答えます。

「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20.28)

このことについて、聖アウグスチヌス(354〜430年)はこう解説しています。

トマスは「人間を見て触り、見たことも触ったこともない神を認めた。しかし彼は見て触った前者によって、もはや疑いを離れて後者を信じたのである。」(アウグスティヌスの福音書講解説教)
福音書記者ヨハネは、続けて、イエスがトマスに述べた最後のことばを記します。

「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20.29)

このことばは、現代でもいうことができます。「見ないで信じる人は、幸いである」
いずれにせよ、イエスは、トマスに続くキリスト信者、わたしたちすべてにとっての基本原則をここで述べています。

興味深いのは、もう一人のトマス、すなわち中世の偉大な神学者トマス・アクィナス(1224/1225〜1274年)が、この幸いと、ルカによって一見すると逆のしかたで述べられた、もう一つの幸いとを、結びつけていることです。

「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」
(ルカ10.23)

しかし、トマスはこう解説します。

「見ているのに信じない者よりも、見ないで信じる者のほうがはるかに価値がある」(ヨハネ福音書注解)
実際、ヘブライ人への手紙は、約束されたものが実現されるのを見ないで神を信じた、聖書の多くの太祖たちを思い起こすことによって、信仰を次のように定義します。

「望んでいることがらを確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ11.1)

使徒トマスの例は、少なくとも次の三つの理由から、わたしたちにとって重要です。
第一に、それはわたしたちが不安なときに力づけてくれるからです。
第二に、それはどのような疑いも、最後は迷いを超えて明らかにされうることを、わたしたちに示してくれるからです。
最後に、イエスがトマスに語ったことばは、成熟した信仰の真の意味を思い起こさせ、困難があっても、イエスに忠実に歩み続けるようにわたしたちを励ますからです。

(後略)
【引用終わり 】
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復活祭の福音書朗読では、ヨハネ福音書20章が9節まで読まれたが、厳密にはここの箇所ではキリストが復活したという事は書かれていない。
正確には「墓を塞いでいた岩が動かされていて、亡骸が見当たらなくなっていた」という内容で、弟子たちもキリストの復活を実感していない。

トマス以外の弟子たちも、すぐには何が起きたのか理解できずにいたので、何もトマスだけが疑い深かったわけではない。


トマスという人は、ストレートな人だけれども自分の心に偽りがなく率直で、こういう人がいないと聖書も面白くない。


しかしトマスの不信は「しるし」が示されたことで確信に変わった。

現代に生きる私たちも、トマスのように「しるし」を見ることができるのか?
現代における「しるし」とは、何なのか?

現代の「しるし」を、実はもう、私は既に見ていて気づいていないのか?


そんなことを想ってしまう。

「人間を見て触り、見たことも触ったこともない神を認めた。しかし彼は見て触った前者によって、もはや疑いを離れて後者を信じたのである。」という聖アウグスティヌスの言葉は、とても気になる。


ところで、聖トマスが確信した際に口から出た「わたしの主、わたしの神よ」という言葉は、ミサの聖変化のときに、呟いてもいいとされている。


聖トマスに倣い、私はいつも小さい声で呟いている。

今年の聖週間は都合がつけられなかった金曜を除いて、偶然にも木曜と土曜は非常に尊敬しているX神父の神父のミサに与れたので、とても味わい深い復活祭だった。

説教の中でX神父は、「福音書では復活の記述で微妙な齟齬もあって弟子たちの混乱した状態が伺えるけれども、『墓が空になっていた』ということが共通していて、また『ガリラヤで待っている』というメッセージにより、弟子たちが復活した主を探し求めるための行動の出発点になっている。」ということを話された。

初代教会の弟子たちにとってのガリラヤは、彼らの故郷であり、キリストとの出会いの場所。

初代の信徒が復活したキリストと出会うための場所として、『ガリラヤで待っている』というメッセージは、肌感覚で受け入れられるしっくりとくるメッセージだったのかもしれない。


ただし、同時代ではない現代の日本に生きる私たちにとっては、イスラエルのガリラヤが「肌感覚でしっくりくる」という感覚までには、なかなか辿り着けない。

では「私たちにとってのガリラヤ」とはいったいどこになるのだろうか?
「キリストを探す」ということは「私のガリラヤを探す」ということでもある。


少し、優等生カトリック信者的な答えをいうならば、ミサそのものが秘跡に与る意味で「キリストと出会う場所」であることは間違いない。

私のように信仰歴の中で長い教会離れのブランクのある信者にとっては、カトリック聖歌を歌うようなミサの時に、子供の時の教会の記憶が呼び起こされ「ああ故郷に帰って来れた」と懐かしさを感じられる一瞬がある。
また今回のように、オーラのような霊性を感じる司祭の司式のミサでも、霊的な刺激がある。
そういう、ちょっとした発見、気づきの中に、ささやかな「ガリラヤ体験」あるのかもしれず「信仰生活の基盤である教会こそがガリラヤ」ということでも、大きくはズレてはいないかもしれない。

ただし、X神父の説教では「キリストは愛そのものであり、身近な場所でも愛に満ち溢れている場所こそが、キリストとの出会いの場所、すなわち『私たちのガリラヤ』と言えるのではないか。」というようなことを話された。

説教のメモをとらなかったので、もしかしたら理解のズレがあるかもしれないが、私の受け止めた記憶ではそういう感じだった。

そうなってくると「私にとってのガリラヤを探す」という外的なベクトルではなく「私にとってのガリラヤを見い出す」という内的なベクトルに切り替わってくる。

ちょっと混乱しているが、良い話を聞けた。

みなさま
主の御復活、おめでとうございます。




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